森一久
森 一久(もり かずひさ、1926年1月17日[1] - 2010年2月3日[2])は元日本原子力産業会議副会長[2]、ジャーナリスト。日本で原子力研究開発の推進に貢献した[2][3]。中央公論の編集者をしながら、1955年から毎日新聞出版の『エコノミスト』に間弘明(はざまひろあき)の筆名で記事を書き、『自然』や岩波書店『世界』で匿名記事を書いた[4]。
京都大学物理学科で素粒子論を専攻し[5]湯川秀樹のもとで理論物理を学んだ[6][3]。中央公論社に9年間記者として在籍し[6]、東京12チャンネル(現テレビ東京)、電源開発を経て日本原子力産業会議に入社[5]。同会議の設立にも関与しており[5]、電源開発からの出向の形で事務方として同会議に入社し[5][7]、後に専務理事を務め[6]、1996年から2004年まで副会長を務めた[5]。
経済産業省総合エネルギー調査会原子力部会委員[8]、原子力委員会で専門委員[9]、新型動力炉開発専門部会構成員[10]、ウラン濃縮国産化専門部会構成員[11]など[12][13][14]を務めた。
広島市中区出身[6]。広島の自宅で被爆した被爆者でもあり[6]、原子爆弾投下により家族5人をなくした[3]。妻と2人の息子を持った[15]。
出典
編集- ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 2 (学術・文芸・芸術篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、1095頁。
- ^ a b c 日本原子力産業協会 [訃報]森一久・元原産副会長が死去 原子力産業新聞 2010年2月11日 第2513号 <2面>
- ^ a b c 後藤茂, '冥王星72 国民に対する重い「契約」' Plutonium No.75 Autumn 2011
- ^ 藤原章生 戦後70年・原子の森、深く:第2部・孤高の闘い/8 「広く明らかに」書く 2015年2月12日 毎日新聞
- ^ a b c d e 伊原義徳 【追悼文】森一久さんを偲ぶ 原子力に「信念・誇り・情熱」 原子力産業新聞 2010年3月4日 第2516号 <2面>
- ^ a b c d e 被曝と人間第2部臨界事故の土壌[7]日本原子力産業会議副会長 森 一久氏 中国新聞 2000・2・17
- ^ 江種則貴 『論』 原子力村のある被爆者 2011年7月19日
- ^ 総合エネルギー調査会原子力部会委員名簿 (平成11年3月23日現在)
- ^ 昭和61年 原子力委員会月報31(4)人事異動・4月
- ^ 新型動力炉開発専門部会の設置について 昭和50年7月8日原子力委員会
- ^ ウラン濃縮国産化専門部会の構成員について 昭和55年11月25日原子力委員会
- ^ 基盤技術推進専門部会の設置について 昭和62年9月11日原子力委員会
- ^ 原子力委員会 基盤技術推進専門部会専門委員名簿 (平成9年9月)
- ^ 放射性廃棄物対策専門部会の設置について 昭和62年11月27日原子力委員会
- ^ The International Who's Who 2004, Europa Publications, p1169
関連文献
編集- 藤原章生『湯川博士、原爆投下を知っていたのですか―“最後の弟子”森一久の被爆と原子力人生―』(新潮社 2015) ISBN 978-4103394310
- 荒川文生「日本における原子力発電技術の歴史-オーラルヒストリィ」2014年5月14日 電気学会電気技術史研究会 HEE-14-006
外部リンク
編集- Interview with Kazuhisa Mori, 1987(1987年の森一久のインタビュー) WGBH Open Vault(日本語と英語の動画)
- 中国新聞 被曝と人間