棒出し
概要
編集この棒出しはかつて江戸川の流頭部(権現堂川・ 逆川との接続部)に設けられていた水利施設である。今日の幸手市側を「西棒出し」、野田市側を「東棒出し」と称していた。機能としては、丸太を数千本打ち込むことにより川幅を狭め、江戸川・権現堂川から逆川・常陸川への水流を確保し逆流を防止する役割をもっていた。
天保年間に建造がなされ、それにより江戸川沿いの水害は減少したが、その分利根川沿いに水害が発生するようになった。この後1875年(明治8年)および1884年(明治17年)に玉石積みに組み替えられるも、大水により崩壊したため1885年(明治18年)に角石積みとなった。1898年(明治31年)にはセメントを利用した角石張りに改良された。1910年(明治43年)に発生した大水害を受け河川改修が行われ、これに伴い江戸川の流頭部が北へと移り、また権現堂川は締め切られた。1927年(昭和2年)に行われた新たな流頭部への関宿水閘門の設置に合わせて、1929年(昭和4年)に棒出しは撤去された[1]。
棒出しの設置年については諸説あり、上記の天保期(1830年 ~ 1843年)の他に1822年(文政5年)とがあるが、1783年(天明3年)の文書に棒出しの記述がみられることから、1783年(天明3年)には建造されていた可能性がある。棒出しの上には関宿の関所が設置されており、関宿藩により管理されていた。[2]
棒出しに利用されていた石材は栃木県の岩船山で採掘されたものが水運で渡良瀬川を流下し運ばれたものとみられている。この岩は岩舟石と称され、火成岩のため加工しやすく耐候性が高いという特徴がある。棒出しから撤去された角石は現在、中の島公園や千葉県立関宿城博物館に展示されており、旧関宿小学校の石垣や茨城県猿島郡五霞町の善照寺鐘付堂石垣にも利用されている。[3]
脚注
編集- ^ 『川の史跡 棒出し(現地所在の案内板[二基所在]、案内板所在地(幸手市側)・案内板所在地(野田市側))』 国土交通省 江戸川河川事務所 設置 2000年3月制作(2013年7月19日確認)
- ^ 『関宿関所と棒出し(現地所在の案内板、案内板所在地)』 千葉県立関宿城博物館 設置
- ^ 『川の史跡 棒出しの石(現地所在の案内板、案内板所在地)』 建設省 江戸川工事事務所 設置(2013年7月19日確認)
関連項目
編集外部リンク
編集- 棒出しの周辺 - 『歴史的農業環境閲覧システム』 (独立行政法人 農業環境技術研究所ホームページ)
- 「関宿棒出し」 - 千葉県立関宿城博物館ホームページ
- 江戸川旧流頭平面図 (PDF) - 土木学会附属土木図書館
- 「10.利根川水運と関宿水閘門(せきやどこうもん)・利根運河」 - 千葉県ホームページ
- “「昔の流れ」 幸手の環境を学ぼう”. 幸手市. 2022年9月18日閲覧。
- 「特集「利根川」」『アーバンクボタ』No.19、株式会社クボタ、1981年1月、2022年9月17日閲覧。
- 『近世初頭の河川改修と浅間山噴火の影響』
- 『棒出し撤去と世界屈指の大土工』
- 『利根川治水の成立過程とその特徴』
- 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス