梓州
魏晋南北朝時代
編集隋代
編集隋初には、新州は4郡6県を管轄した。583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、新州の属郡は廃止された。598年(開皇18年)、新州は梓州と改称された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、梓州は新城郡と改称され、下部に5県を管轄した[1]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
隋代の行政区画変遷 | |||||||
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区分 | 開皇元年 | 区分 | 大業3年 | ||||
州 | 新州 | 郡 | 新城郡 | ||||
郡 | 昌城郡 | 高渠郡 | 塩亭郡 | 通泉郡 | 県 | 郪県 射洪県 塩亭県 通泉県 飛烏県 | |
県 | 昌城県 射洪県 | 高渠県 | 塩亭県 | 通泉県 光漢県 |
唐代以降
編集618年(武徳元年)、唐により新城郡は梓州と改められた。742年(天宝元年)、梓州は梓潼郡と改称された。758年(乾元元年)、梓潼郡は梓州の称にもどされた。梓州は剣南道に属し、郪・射洪・塩亭・永泰・通泉・飛烏・玄武・銅山の8県を管轄した。乾元年間以後、梓州は東川節度使の治所とされた[2]。