梓州(ししゅう)は、中国にかつて存在した南北朝時代から宋代にかけて、現在の四川省綿陽市南部に設置された。

魏晋南北朝時代

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南朝梁蕭紀(皇位僭称552年-553年)により設置された新州を前身とする。

隋代

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初には、新州は4郡6県を管轄した。583年開皇3年)、隋が郡制を廃すると、新州の属郡は廃止された。598年(開皇18年)、新州は梓州と改称された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、梓州は新城郡と改称され、下部に5県を管轄した[1]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。

隋代の行政区画変遷
区分 開皇元年 区分 大業3年
新州 新城郡
昌城郡 高渠郡 塩亭郡 通泉郡 郪県 射洪県
塩亭県 通泉県
飛烏県
昌城県 射洪県 高渠県 塩亭県 通泉県 光漢県

唐代以降

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618年武徳元年)、により新城郡は梓州と改められた。742年天宝元年)、梓州は梓潼郡と改称された。758年乾元元年)、梓潼郡は梓州の称にもどされた。梓州は剣南道に属し、郪・射洪・塩亭・永泰・通泉・飛烏・玄武銅山の8県を管轄した。乾元年間以後、梓州は東川節度使の治所とされた[2]

1118年重和元年)、北宋により梓州は潼川府に昇格した[3]

脚注

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  1. ^ 隋書』地理志上
  2. ^ 旧唐書』地理志四
  3. ^ 宋史』地理志五