梅垣 直治郎(うめがき なおじろう、安政3年11月21日1856年12月18日)- 1923年9月1日[1])は、雷部屋に所属した元力士。九州相撲、京都相撲でも取っていたが、所属部屋は不明。

経歴

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草相撲で培った多彩な技を武器に戦った[2]

本名は田中 直次郎[1]筑後国三潴郡(現在の福岡県大木町)出身[1]。身長・体重ともに不明だが、小兵だったと伝わる。

当初は九州で大谷という四股名で相撲を取り、大関まで昇進。後に京都相撲でも大谷の名で相撲を取った。その後東上して、1886年1月初土俵(三段目格番附外)、1894年5月、37歳にして新十両(西二段目8枚目となり十両相当となった)。この場所は2勝2敗1分5休の成績だった[3]が、場所後に黄疸を発症。結局関取となったのは、この場所限りに終わった。

病気がちで体が丈夫ではなかったが、やぐら投げ小手投げとったりなどを得意とした[4]

1897年5月場所限りで引退。この時40歳だった[1]。直ちに11代音羽山を襲名し、音羽山部屋を再興させたが、こちらでも関取を育てることなく終わった[1]。そして、1923年9月1日に発生した関東大震災に遭い、妻や娘と共に死去した[1](死没地及び最期の様子は不明である)。満66歳没。尚、大相撲関係者では他に當り矢信太郎(第13代春日山[5]が、関東大震災の犠牲者となっている。2022年9月に100回忌が行われるまで、音羽山の名跡を継いだ親方衆やその家族が墓守をしてきた[4]

墓は豊島区南蔵院にある[1]。戒名は「音光院徳山直道居士」。

主な戦績

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  • 十両成績:2勝2敗1分5休

改名歴

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  • 大谷(九州・京都相撲時代)
  • 梅垣(東京相撲)

出典

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関連項目

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