梁漱溟
梁 漱溟(りょう そうめい)は近代中国の思想家。祖籍は広西省桂林県。1911年に順天中学を卒業した。
梁 漱溟 | |
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Who's Who in China 5th ed. (1936) | |
プロフィール | |
出生: |
1893年10月18日 (光緒19年9月初9日) |
死去: |
1988年6月23日 中華人民共和国 北京市 |
出身地: |
清 直隷省順天府 (現:北京市) |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 梁 漱溟 |
簡体字: | 梁 漱溟 |
拼音: | Liáng Shùmíng |
ラテン字: |
Liang Shu-ming Liang Shou-ming |
和名表記: | りょう そうめい |
発音転記: | リャン シューミン |
1917年、蔡元培学長に招かれ、北京大学の教授となり、インド哲学を講じた。
その後、1928年に「村治」として提唱した自らの思想的実践を果たすために、郷村建設運動に没頭し、儒教の精神に法った農村社会運動家、教育家として、山東省の郷村建設の指導を行った。また、日本の二宮尊徳を敬愛したことでも知られている。
第二次世界大戦中は、1941年に結成された中国民主政団同盟に参加し、国共両陣営の橋渡し役を演じ、民主同盟の結成に参画した。
1946年、政治協商会議後にいったん引退した後、人民政府の成立後、四川省の土地改革に参加した。1951年、中国人民政治協商会議委員に補選され、思想改造の手記を公表した。毛沢東ら共産党中央が、農民の生み出す余剰を搾取し、都市における工業化に投入する、という社会主義過渡期の総路線政策に転換したのに対して、農民こそが中心であるとし、政治協商会議の場で毛沢東に対して自己批判を求めた。このため、1955年以降、思想批判にさらされ、1956年の中国人民政治協商会議第2次全体会議で自己批判を行った。
著書
編集- 『東西文化とその哲学』
- 『郷村建設理論』
関連書籍
編集- 戴晴『毛沢東と中国知識人』東方書店