桜井徳太郎 (陸軍軍人)
桜井 徳太郎(さくらい とくたろう、1897年6月21日 - 1980年12月28日[1])は、日本の陸軍軍人、僧侶。最終階級は陸軍少将。法名、全覚。
桜井 徳太郎 | |
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生誕 |
1897年6月21日 日本 福岡県 |
死没 | 1980年12月28日(83歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1918 - 1945 |
最終階級 | 陸軍少将 |
経歴
編集旧福岡藩士・小学校長、桜井英一の長男として福岡市に生まれる。中学修猷館、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第36連隊附となる。1925年11月、陸軍大学校(37期)を卒業した[1]。
陸軍戸山学校教官、北京陸大教官(中国政府招聘)、第10師団参謀、混成第8旅団参謀、歩兵第24連隊第3大隊長、陸軍歩兵学校教官[1]。1936年2月、二・二六事件が発生し、兼務で戒厳参謀となり、事態収拾に尽力している。
その後、支那駐屯軍司令部附、第1軍参謀、陸大教官などを歴任し[1]、1938年7月に陸軍中野学校が開校すると教官となり、支那事情を講義した[2]。
1939年8月、陸軍大佐に累進し、冀察政務委員会の第29軍軍事顧問、支那派遣軍司令部附、第34師団参謀長、陸軍憲兵学校兼陸軍軍医学校教官、歩兵第65連隊長[1]。
1943年8月、陸軍少将に進み、第55歩兵団長[1]。1944年2月、インパール作戦のための牽制としての第二次アキャブ作戦が発動され、シンゼイワでイギリス軍第7インド師団を包囲したが、いわゆる円筒形陣地によって抵抗され、包囲を解いて撤退。ビルマ方面軍司令部附(ビルマ国民軍軍事顧問)に転じるが、1945年3月ビルマ国民軍が日本に対して反乱し、その収拾中に内地帰還命令が出され、1945年4月に帰国。第212師団長として本土決戦に備える中で終戦を迎え、1945年12月に復員[1]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[3]。
1948年4月、誠和連盟を設立。1961年12月、三無事件に関与したとして逮捕されるが不起訴処分となった[1]。1966年6月、大覚寺で得度を受け瑠璃光寺住職となる。
著書
編集- 『新東亜建設の大道』玄海書房、1938年。
- 『広安門』刀江書院、1939年。
- 『世界不戦論』誠和連盟、1964年。
脚注
編集参考文献
編集- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会、1991年。ISBN 978-4-130-36060-9。69頁
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 大津健一『元死刑囚 大津健一自伝 絞首への道【純情編】』徳間書店、1983年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。