桜井三郎右衛門 (10代)
10代 桜井 三郎右衛門(櫻井 三郎右衛門[1]、さくらい さぶろうえもん[2]、1849年7月31日(嘉永2年6月12日)[3]) - 1908年(明治41年)1月27日[2][1])は明治時代の政治家、実業家、島根県の大地主[4]。貴族院多額納税者議員。旧姓は神田。諱は直達[2]。族籍は島根県平民[3]。
桜井三郎右衛門 さくらい さぶろうえもん | |
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生年月日 | 1849年7月31日 |
出生地 |
日本 出雲国神門郡下古志村 (現・島根県出雲市下古志町) |
没年月日 | 1908年1月27日(58歳没) |
前職 | 実業家 |
子女 | 長男・11代三郎右衛門 |
在任期間 | 1900年11月1日 - 1904年9月28日 |
阿井村会議員 |
経歴
編集出雲国神門郡下古志村(現・島根県出雲市下古志町)出身[2]。神田猪蔵の三男[2]。仁多郡上阿井村(現・奥出雲町上阿井)・桜井源兵衛の養子となる[2]。
家業の製鉄は明治10年代に入ると、洋鉄の流入その他により経営が次第に苦しくなり、秦、絲原、田部の各鉄師と連盟して島根県に対して鉄山炉の経営資金拝借方を願い出たが、聞き入れられなかった[2]。これにくじけず、施設の近代化に努力し地方製鉄業の模範となる改革を行う[2]。
1900年(明治33年)、桜井製糸会社を創設する[2]。また仁多牛の改良、造林、開墾等を行う[2]。
1885年(明治18年)以降、仁多郡上阿井村外二村連合会議員、同郡勧業会員、島根県農事試験委員、阿井村会議員、仁多郡参事会員、島根県農工銀行[注 1]、八雲銀行[注 2]各取締役、島根県実業会幹事長などを歴任した[1]。
1900年(明治33年)、島根県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年11月1日から[5]1904年(明治37年)9月28日まで務めた[1]。
人物
編集家族・親族
編集- 桜井家
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d 『議会制度七十年史 第1』195頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年9月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 『出雲市三十年誌』1206 - 1207頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年9月4日閲覧。
- ^ a b c 『全国多額納税者互選名鑑』335頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年9月5日閲覧。
- ^ 『日本現今人名辞典』さ21頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年9月5日閲覧。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、10頁。
- ^ 『人事興信録 第4版』さ73頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年9月4日閲覧。
参考文献
編集- 梅田正勝『全国多額納税者互選名鑑』溝口摂弥、1898年。
- 『日本現今人名辞典』日本現今人名辞典発行所、1900年。
- 人事興信所 編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第1』大蔵省印刷局、1960年。