桂 景信(かつら かげのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将小早川隆景の家臣[2]桂氏は毛利氏の庶流で、父は毛利氏の重臣・桂元澄

 
桂景信
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 文禄3年6月2日[1]1594年7月19日
戒名 籌林宗勝[1]
官位 右衛門大夫[2]周防守[1]
主君 小早川隆景
氏族 大江姓毛利氏庶流桂氏
父母 父:桂元澄[2]、母:福原広俊の娘[2]
兄弟 元延[2]元貞[2]元親[2]景信相琳妙悟冷泉元豊室)[2][3]広繁[2]元盛[2]元時[2]
景種[1]
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生涯

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毛利氏の重臣である桂元澄の四男として生まれ、小早川隆景に仕える[1]

『小早川家文書』に収められている正月の座配立書では永禄年間に上座から3番目、天正年間に6番目に記されており、景信は家臣団の中でも小早川氏一門に匹敵する高い家格を有していた[4]

天正5年(1577年)、備中国賀陽郡での打渡状井上春忠らと共に署名している[4]

天正7年(1579年)、備前国宇喜多直家が毛利氏を離反して織田氏に味方し、毛利方の備中忍山城を攻撃し占領した。この宇喜多氏の動きに対し、輝元は自ら吉田郡山城を出陣し、同年12月25日夜に忍山城を陥落させた。これによって宇喜多氏の勢力は備中国から駆逐され、輝元は美作国へと進軍する。備中国では備前国との国境防備の強化のために備中国賀陽郡の各城の防備が固められ、加茂城本丸に景信の弟である桂広繁、西の丸に上山元忠、東の丸に元備中石川氏家臣の生石治家日幡城毛利元就の娘婿の上原元将松島城小早川隆景の家臣である梨羽景運、そして庭瀬城に桂景信と井上豊後守がそれぞれ守りについた。

文禄3年(1594年6月2日筑前国松島において死去[1]。法名は「籌林宗勝」[1]。嫡男の桂景種が後を継いだ[1]

脚注

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注釈

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出典

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参考文献

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  • 防長新聞社山口支社 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060  国立国会図書館デジタルコレクション
  • 北原進『長州藩士桂家文書』立正大学経済研究所〈研究叢書9〉、1979年3月。全国書誌番号:79031161  国立国会図書館デジタルコレクション
  • 新人物往来社 編『小早川隆景のすべて』新人物往来社、1997年11月。ISBN 4-404-02517-3 
    • 舘鼻誠「小早川隆景関係人物事典」新人物往来社編『小早川隆景のすべて』新人物往来社、1997年11月、187-206頁。