栃尾城の戦い(とちおじょうのたたかい)とは、天文13年(1544年)、越後戦国大名上杉謙信(当時の名は長尾景虎)が、当時の越後守護代で実兄の長尾晴景の要請により、栃尾城に攻め寄せてきた越後国人衆を破った戦い(『上杉家文書』)。

秋葉公園から眺めた栃尾城本丸跡
栃尾城の戦い
戦争戦国時代 (日本)
年月日天文13年(1544年)
場所栃尾城
結果長尾景虎の勝利
交戦勢力
指導者・指揮官
長尾景虎 長尾平六郎? 
黒田秀忠?他
戦力
不明 不明
損害
不明 不明
上杉謙信の戦闘
栃尾城跡のふもとにある秋葉公園に建つ上杉謙信像

天文13年(1544年)春、晴景を侮って越後の豪族が謀反を起こした。古志郡司であった15歳の景虎は栃尾城に入っていたが、これを若輩と軽んじた近辺の豪族は、栃尾城に攻めよせた。しかし景虎は少数の城兵を二手に分け、一隊に傘松に陣を張る敵本陣の背後を急襲させた。混乱する敵軍に対し、さらに城内から本隊を突撃させることで壊滅させることに成功。並外れた指揮官としての才能を見せた謙信は、謀反を鎮圧することで初陣を飾った。

謙信は、その後も連戦連勝して国内の反乱を鎮圧。さらに晴景に代わって長尾家を継ぎ、越後を統一する。

伝承として、この時景虎に敵対したのは三条の長尾平六郎と黒滝城主の黒田秀忠であったとも伝わる。これは、天文14年(1545年)黒田秀忠が春日山城に攻め込んだのは、降伏して再び謀反を起こした時であったという流れに基づいているかと思われる。しかし、この時期の様々な伝承をそのまま信用すると時系列にかける。例えば、黒田秀忠が春日山城に攻め込んだ際、春日山に居た長尾虎千代(後の上杉謙信)は軒下に逃げ込み難を逃れたと云々。越後が混乱の時期に中越を抑えるため栃尾へ派遣された景虎が、この時期に栃尾城を離れたとは考え難い。そもそも信用できる史料が発見されていないため、どの伝承も信憑性にかける。更に近年では新史料の発見に伴う研究の進展の結果、景虎の栃尾城入りが母の虎御前が実家の古志長尾家に帰ったのに従っただけとする説[1]、あるいは古志長尾家が景虎を当主に迎えたとする説[2]が浮上し、更に黒田秀忠の謀叛[注釈 1]についても天文17年(1548年)の出来事、つまり晴景と景虎の家督争いに関連した戦いとする説[3][4][5]が出されているのが実情である。

脚注

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注釈

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  1. ^ 高野山清浄心院に対して供養依頼を行った内容を集成した『越後過去名簿』と呼ばれる古文書が発見され、その中に黒田和泉守(秀忠)が天文16年7月15日(1547年7月31日)に家族の供養と自身と妻の逆修供養の依頼を行っていることが判明した。その結果、黒田秀忠の謀叛は天文16年7月以降の出来事であることが判明し、通説が覆る形となった。詳細は今福論文参照のこと。

出典

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  1. ^ 福原圭一「上杉謙信」五味文彦 監修『歴史文化遺産 戦国大名』山川出版社、2018年、P48.
  2. ^ 阿部洋輔「上杉謙信の政治動向」初出:『歴史公論』第11巻6号(通巻115号)1985年/所収:前嶋敏 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第三六巻 上杉謙信』(戒光祥出版、2024年)ISBN 978-4-86403-499-9)。2024年、P46.
  3. ^ 今福匡「再考・黒田秀忠の乱」『十六世紀史論叢』3号、2014年。 /所収:前嶋敏 編『上杉謙信』戒光祥出版〈中世関東武士の研究 第三六巻〉、2024年、331-353頁。ISBN 978-4-86403-499-9 (なお初出では天文16年の出来事としているが、再録時に1年後に修正している)
  4. ^ 福原圭一「上杉謙信」五味文彦 監修『歴史文化遺産 戦国大名』山川出版社、2018年、P52-53.
  5. ^ 前嶋敏「景虎の権力形成と晴景」福原圭一・前嶋敏 編『上杉謙信』高志書院、2017年、P12-14.