柿本善也
柿本 善也(かきもと よしや、1938年2月7日 - )は、日本の政治家、自治官僚。第4代奈良県知事(在任期間:1991年~2007年)。
柿本善也 かきもと よしや | |
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生年月日 | 1938年2月7日(86歳) |
出生地 | 奈良県大和高田市 |
出身校 | 東京大学法学部第1類[1] |
称号 |
法学士(東京大学・1961年) 旭日大綬章 |
公選第13・14・15・16代 奈良県知事 | |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1991年11月28日 - 2007年5月2日 |
来歴
編集奈良県大和高田市出身。奈良県立高田高等学校、1961年 東京大学法学部第1類(私法コース)卒[1]。自治省に入省。1981年 自治省行政局公務員部給与課長。1983年 自治省財政局地方債課長。1986年 自治省財政局財政課長。1988年7月 自治大学校長。1990年4月 奈良県副知事に就任。上田繁潔知事の辞意表明を受け1991年11月の奈良県知事選挙に立候補、初当選した。平城遷都1300年記念事業協会副会長。
人物
編集バブル崩壊期に奈良県政を担当し、1997年12月には1億5000万円に上る県庁食料費不正流用事件も発覚した。この時は柿本知事始め県庁幹部が私費で返済し、刑事事件となるのを免れた。さらに2000年11月には奈良県立医科大学教授陣の汚職事件、2001年3月には奈良県警察本部を舞台にした奈良佐川急便事件など大掛かりな不祥事が多発した。2001年9月明日香村にオープンした奈良県立万葉文化館(建設費140億円)も古代遺跡の上に立地しているとして物議をかもしながらオープンしたものの利用者数の低迷から年間約4億円の赤字が発生している。知事就任以来「遊」の哲学を提唱していたが、県勢は衰退に追い込まれた。
2006年12月の奈良県議会本会議で、任期満了を6ヶ月前倒して、突然今季限りでの引退を表明した(2007年1月の記者会見で同年5月2日付での退任を発表)。4月に行われた統一地方選挙では後継者に参議院議員の荒井正吾を事実上指名し(荒井自身は後継者ではないと後に言明)、知事選(県議選と同日選)が実施された(奈良県知事選挙が統一地方選挙期間に実施されるのは1979年以来28年ぶり)。平城遷都1300年記念事業実施への執念を燃やしていた柿本知事の突然の引退表明の真相は不明である(この時期、鳥取県知事も2期での引退を表明。2期目であった和歌山県知事は不祥事により辞職・逮捕)。
また、叙勲を県在住者へ直接渡したいとの本人の意向から統一地方選終了後1ヶ月も経過した2007年5月2日付まで在任(このため荒井新知事は5月3日付け就任となったが、ゴールデンウィーク中のため実際の登庁は5月7日までずれ込んだ)したが、このため5月に2日間在任しただけで退任後の6月にボーナスが約120万円支給されたことが報道された(本人のコメントなし)。過去に女性管理職が退職直前の昇格により退職金が加算されたことについてマスコミがお手盛り批判を行い、そのためその元女性管理職はその退職金加算分を福祉団体に寄付するに至ったことがあり、その対応と比較して語られることもある。
また、引退発表後の2007年1月30日に一般国道169号(奈良県吉野郡上北山村西原地内)において法面崩落災害が発生し、3名の死者とこの地域の唯一のライフラインである国道が長期に渡り通行止め(解除は2007年4月20日)に追い込まれるなど、地元経済及び医療福祉等住民生活に多大な影響を及ぼした。それにも拘わらず現地になかなか行こうとせず(災害が継続していれば現地に行くが、継続している災害ではなく、また地元村長から土木事務所を通じて意見を聞いているので行く必要がないとマスコミや議会で表明)、県議会で共産党議員から「知事はこんなに冷たい人だとは思いませんでした。裏切られました」との地元住民のコメントを発表され、県議会でどよめきが起こった。その後、1月30日の崩落から44日後の2007年3月15日にようやく現場入りし、議員や区長、団体の代表者ら約20人が出席した約40分間の懇談会を開催した。この日は十津川村内の国道168号宇宮原バイパスの完成供用開通式(10:30~)の日であったが、そちらにも出席している。
脚注
編集公職 | ||
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先代 上田繁潔 |
奈良県知事 公選第13-16代:1991年 - 2007年 |
次代 荒井正吾 |