柴谷伊之助
柴谷 伊之助[1](しばたに いのすけ、旧姓・綿谷、1861年7月7日(文久元年5月30日)[2][3] - 1923年(大正12年)1月27日[4])は、日本の篤農家[5]、資産家[6][7][8]、政治家、実業家。大阪府東成郡天王寺村長[9]。族籍は大阪府平民[3][8][10]。
経歴
編集大阪府平民・綿谷庄七の二男[2][3][8]。1880年、先代トクの養子となり後に家督を相続する[3][8]。1915年7月23日から1920年11月16日まで天王寺村長をつとめた[9]。
南海土地建物、大東土地各代表[10]、阪南土地建物、摂津畜産興業各取締役[3][10]、柴谷土地建物監査役[11]などをつとめた。
人物
編集柴谷伊之助について『大阪経済雑誌 第18年(21)』によると「通称を禿といい、ドコの者とも分からぬ流れ渡りの柴谷伊之助という者がいる。柴谷家の養子となった者で、至て土地の憎まれ者である。」という[12]。
『大正人名辞典』によると「大阪府の富豪として知られる。人柄は謹厚で勤勉、富んで驕らず、孜々として家運の発展に力む。」という[2]。
家族・親族
編集- 柴谷家
- 長男・利一[10](1886年 - ?、柴谷合名会社社員) - 明治大学に学ぶ[13]。1923年、家督を相続する[13]。柴谷土地建物社長・同取締役[11]をつとめる。
- 二女・トクノ(1892年 - ?、森田政義の妻[10]、大屋政子の母)
- 孫[10]
- 親戚
脚注
編集- ^ 『大日本紳士鑑』大阪府東成郡269頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年3月28日閲覧。
- ^ a b c 『大正人名辞典』1131頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年11月25日閲覧。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第5版』し19頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年11月25日閲覧。
- ^ 『官報 1923年05月16日』官報 第3236号 429頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月2日閲覧。
- ^ 『大日本篤農家名鑑』188頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年11月25日閲覧。
- ^ 『資産家国の光 京都府下・大阪府下・兵庫県下 大正9年3月調査』20頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月2日閲覧。
- ^ a b 『全国五十万円以上資産家表 時事新報社第三回調査』8頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年11月25日閲覧。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第4版』し18頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年11月13日閲覧。
- ^ a b 『東成郡誌』372頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年11月25日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第6版』し16頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年11月25日閲覧。
- ^ a b c 『日本全国諸会社役員録 第28回』大阪府 上編647頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年11月25日閲覧。
- ^ 『大阪経済雑誌 第18年(21)』28頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月2日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第8版』シ44頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年11月25日閲覧。
参考文献
編集- 妹尾久造編『大日本紳士鑑』経済会、1895年。
- 『大阪経済雑誌 第18年(21)』大阪経済社、1910年。
- 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 『全国五十万円以上資産家表 時事新報社第三回調査』時事新報社、1916年。
- 東洋新報社編『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 高木長蔵編『資産家国の光 京都府下・大阪府下・兵庫県下 大正9年3月調査』高木長蔵、1920年。
- 商業興信所編『日本全国諸会社役員録 第28回』商業興信所、1920年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 大阪府東成郡編『東成郡誌』大阪府東成郡、1922年。
- 大蔵省印刷局編『官報 1923年05月16日』日本マイクロ写真、1923年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。