林燫
林 燫(りん れん、1524年 - 1580年)は、明代の官僚・学者。字は貞烜、号は対山[1]。本貫は福州府閩県。弟は林烴。
生涯
編集林庭機の長男として生まれた。1547年(嘉靖26年)、進士に及第し、翰林院庶吉士に任じられた。1549年(嘉靖28年)、翰林院検討に進んだ[2]。1552年(嘉靖31年)、景王朱載圳が景王邸に入ると、林燫はその侍講を命じられた[3]。1558年(嘉靖37年)、翰林院修撰に進んだ[4]。嘉靖末年、国子祭酒となった。祖父の林瀚・父の林庭機と、三代にわたって祭酒となったのは、前例のないことであった。1567年(隆慶元年)4月、太常寺卿の位を加えられた。5月、礼部右侍郎に抜擢された[5]。辺境防備七事を上書した。吏部右侍郎に転じた。1568年(隆慶2年)2月、南京吏部右侍郎として出向し、礼部の事務を代行した。1573年(万暦元年)、南京工部尚書に進み、南京礼部尚書に転じた。母が死去すると、林燫は官を去って喪に服した。喪が明けると、林燫は隠居した父のそばで身の回りの世話をした。1580年(万暦8年)6月癸丑、父に先立って死去した[6]。享年は57[7]。太子少保の位を追贈された。諡は文恪といった。著書に『福州府志』36巻[8]・『文集』16巻[9]があった。
子に林世勤があった。
脚注
編集参考文献
編集- 『明史』巻163 列伝第51