林洞海
日本の医師
林 洞海(はやし どうかい、文化10年3月3日(1813年4月3日) - 明治28年(1895年)2月2日)は、日本の武士・蘭方医。幕府奥医師。名は彊。
経歴
編集文化10年(1813年)、豊前国小倉藩士、林祖兵衛の三男として生まれる。20歳のころ江戸に出て、蘭医足立長雋の塾を通じて佐藤泰然と知り合い、泰然とともに長崎でオランダ医学を学ぶ[1]。江戸に戻り、泰然が開いた和田塾(のちの順天堂大学)を助ける傍ら、オランダ人医師ファン・デル・ワートルの「薬性論」の翻訳を手掛け、それで得た資金で天保11年(1840年)から3年間再び長崎に留学し、その後泰然の娘と結婚して和田塾を引き継ぐ[1]。安政5年(1858年)、大槻俊斎・伊東玄朴らと図り、お玉が池種痘所設立。
万延元年(1860年)9月13日、小倉藩医より幕府医師に登用され、奥詰医師となる。同日、二の丸製薬所掛。将軍徳川家定の急病に際し、幕府医師に登用されたとするのは日時の誤りである。文久元年(1861年)8月28日、奥医師に進み、同年12月16日、法眼に叙せらる。明治2年(1869年)2月、駿府藩立駿府病院開設に伴い病院頭(院長)[2]。同年6月、駿府藩立駿府病院は静岡藩立静岡病院に改称。
親族
編集脚注
編集- ^ a b 佐倉と順天堂の人びと酒井シヅ、日本医史学雑誌 第54巻第2号(2008)
- ^ 静岡県立病院機構静岡県立総合病院 病院概要 沿革
外部リンク
編集- 林洞海・研海 父と子の理念望月洋子、日本医史学雑誌第49巻第4号(2003)