板橋 菊松(いたばし きくまつ、1888年(明治21年)2月3日 - 1983年(昭和58年)1月23日)は、日本ジャーナリスト大学教授である。

経歴

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1888年(明治21年)2月3日、大阪府三島郡で出生。1905年(明治38年)、関西大学に入学するが、1907年(明治40年)、早稲田大学政経学科に転じる。卒業後、宮武外骨率いる大阪滑稽新聞に入社。記者として活躍し、宮武外骨が編集から離れたのちには、主筆を務めた。 1920年(大正9年)朝鮮に渡り京城高等商業学校講師に就任。 その後、1926年(大正15年)には、内地に戻り立教大学の講師に就任し、翌1927年(昭和2年)には商学部の教授に昇進した[1]。 1928年(昭和3年)司法省在外研究員としてアメリカイギリス留学した[1]

その後、法政大学教授を務めたのち、1931年(昭和6年)から関西大学の講師として勤めた。この間1930年代には、右傾化美濃部達吉天皇機関説を糾弾している。1953年(昭和28年)には商学部教授に昇進し、翌年には商学部長に選任された。1956年(昭和31年)には東京連絡本部長になり、1958年(昭和33年)には定年退職したものの引き続き、客員教授として残り、1961年(昭和36年)には顧問に就任した。

1963年(昭和38年)大阪学院大学教授に就任。1975年(昭和50年)には同大学総長となる。また、その間、大学設置基準協会理事、大学設置審議会委員、私立大学連盟常務理事を務め私立大学発展のために尽力した。1983年(昭和58年)1月23日、94歳で死去した。

エピソード

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著書

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  • 長期戦と経済建設  1939年
  • 社債法と社債信託論 1965年

参考書籍

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関連項目

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脚注

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  1. ^ a b 『立教大学新聞 第72号』 1928年(昭和3年)12月5日