板橋町

日本の東京府北豊島郡にあった町

板橋町[1][2](いたばしまち)は、かつて東京府北豊島郡に存在した1889年明治22年)に市制町村制によって誕生した。北豊島郡役所の所在地でもあった。歴史的な板橋のうち、東側の部分に相当する。

いたばしまち
板橋町
廃止日 1932年10月1日
廃止理由 東京市編入
板橋町上板橋村志村赤塚村練馬町上練馬村中新井村石神井村大泉村 → 東京市板橋区
現在の自治体 東京都板橋区
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 東京府
北豊島郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 4.70 km2.
総人口 44,717
(1930年10月1日)
隣接自治体 北豊島郡上板橋村志村王子町滝野川町巣鴨町西巣鴨町長崎町
板橋町役場
所在地 東京府北豊島郡板橋町大字下板橋字番場619-621番地
座標 北緯35度45分04秒 東経139度42分33秒 / 北緯35.75125度 東経139.70925度 / 35.75125; 139.70925座標: 北緯35度45分04秒 東経139度42分33秒 / 北緯35.75125度 東経139.70925度 / 35.75125; 139.70925
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それ以前の武蔵国豊島郡下板橋村(しもいたばしむら)、下板橋宿(しもいたばししゅく)も一部の地域(旧金井窪村、中丸村など)を除けばほぼ同じ領域のため、本項であわせて記述する。

地理

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現在のJR埼京線板橋駅から都営地下鉄三田線板橋本町駅東武東上本線中板橋駅にかけての地域である。板橋区の南東部分であり、地名では板橋稲荷台大山金井町大山東町大山西町大山町加賀熊野町幸町栄町中板橋仲宿仲町中丸町氷川町富士見町双葉町本町大和町のほぼ全域および南町の大半、豊島区高松の一部に相当する。

武蔵野台地上にあるが、北端に石神井川、南端に谷端川が流れているため、それぞれに向かって傾斜となっている。

地名

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  • 大字 下板橋
    • 字 東宿裏、稲荷台、東原、番場、金子、山之上、浮田、平尾裏、水道向、海道向、境久保、原前、山中、土合、堰ノ上、久保田、西宿裏、根村、西原、金沢
  • 大字 滝野川
    • 字 北谷端、平尾
  • 大字 金井窪
    • 字 東、東前、西前、西、西原
  • 大字 中丸
    • 字 川原、前、南、北裏、中原
  • 大字 池袋
    • 字 沼田、原前、内袋、中原

歴史

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板橋の地名はすでに平安時代から室町時代初期までには存在しており、江戸時代初期に上板橋村と下板橋村に分割された。

江戸時代には野方領に属した。正保元禄の改より後における正式な村名は「下板橋宿」であるが、一般に「下板橋村」と呼ばれることが多く、また一部の公文書では「下板橋町」と書かれることもあった。中山道の第一宿としては「板橋宿」と呼ばれており、江戸四宿のひとつであった。板橋宿と呼ぶ場合、下板橋村の宿場町部分をさすことが多い。また、川越街道川越児玉往還)の宿場町としては「下板橋宿」と呼ばれていた。

江戸時代初期には根村、山中、馬場(番場)、平尾などのいくつかの小名に分かれていた。後に宿場町として整備されると、根村が「上宿」を、山中が「仲宿(中宿)」を、後に平尾が「平尾宿」を担当した。平尾宿は宿場が発展してから拡張された部分であり、これにより、板橋宿は江戸と町屋が連続し、ほぼ一体化してしまった。平尾宿は本来「下宿」とするべきだが、「下板橋宿」との混同を避けるために分村名がそのまま残された。

現在、この「平尾」の地名は旧中山道と国道17号の交差する板橋一丁目の交番名に残っている。なお、平尾の語源はかつての「武蔵国豊島郡広岡郷」とする説がある。また、板橋区となるまでは番場の名も小字名として残されていた。また、板橋宿の周辺にあった前述の各村は畑(特に大根畑)あるいは平原(板橋の原、平尾の原)であったが、北西側は加賀藩の下屋敷が広い土地を占めていた。

明治時代に入り、1878年(明治11年)に北豊島郡が誕生すると郡役所(下板橋902番地ほか)が置かれたが、1883年(明治16年)に日本鉄道本線(後のJR東北本線上野駅 - 熊谷駅間が開業したり、1884年(明治17年)の大火で板橋宿の大半が焼失したり、1885年(明治18年)日本鉄道山手線品川駅 - 赤羽駅間が開通しあわせて板橋駅が開業するものの板橋宿のかなり端のほうに設置されたりしたことなどから客足は遠のき、江戸時代の面影は見る影もないほど寂れてしまい、板橋宿は板橋遊郭へと変貌してしまった。

1889年(明治22年)に市制町村制が開始されると、下板橋宿は金井窪村、中丸村(池袋村の分村)および池袋村飛地、上板橋村飛地と滝野川村の一部と合併して板橋町となり、1932年(昭和7年)の板橋区の成立時には板橋町一 - 十丁目となった。なお、この区分による「板橋一 - 四丁目」と、1965年(昭和40年)の住居表示実施以降現在使用されている区分「板橋1 - 4丁目」とは、対応区域が全く異なるため注意が必要である。

連合戸長役場、後の町役場庁舎は現在の仲宿55、56番辺り(大字下板橋2128番地)にあり、1897年(明治30年)7月に現在の仲宿44番へ移転した。その後は仲宿ふれあい広場として整備されている。

沿革・年表

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行政

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町長助役収入役は以下の通り[1][3]

町長

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助役

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  • 青山五郎右衛門 1889年6月 - 1892年7月
  • 瀬田吉兵衛 1892年7月 - 1893年1月
  • 河野浪三郎 1893年2月 - 1896年7月
  • 大野久兵衛 1896年8月 - 1899年3月
  • 河野栄次郎 1899年5月 - 1903年
  • 大野久兵衛 1903年9月 - 1907年4月
  • 辻村四方吉 1907年4月 - 1908年12月
  • 豊田伝之助 1909年3月 - 1914年2月
  • 松田勘治 1914年4月 - 1915年6月
  • 永森哲治 1915年6月 - 1918年11月
  • 山川省 1919年2月 - 1923年2月

収入役

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  • 藤原源兵衛 1890年4月 - 1891年6月
  • 相原善吉 1892年3月 - 1892年5月
  • 飯田昌春 1892年5月 - 1906年9月
  • 豊田保之丞 1906年10月 - 1910年10月
  • 河野正次郎 1910年10月 - 1911年2月
  • 宮本知遠 1911年3月 -

施設

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経済

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産業

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  • 主な産業商 - 業、工業、農業ともに盛ん。
    • 商業 - 旧・板橋宿に由来する店舗が立ち並び、周辺地域の経済の中心地である。
    • 工業 - 増加傾向にある。
    • 農業 - 町の大半は耕地であり、米、穀物、野菜を生産している。
商工業
  • 『日本商工営業録 明治31年9月刊(第1版)』によると、萬屋(鈴木、物品販売業、米穀漬物小売)、川野屋(倉田、物品販売業、白米雑穀卸小売)、萬屋(鈴木、物品販売業、白米荒物卸小売)、池田屋(大野、物品販売業、穀物卸小売)、花井屋(花井、物品販売業、白米荒物卸小売)、伊勢孫(松村、金銭貸付業、金銭貸付)、岡田屋(岡田、金銭貸付業、質商)、藤屋(伊藤、物品販売業、荒物下駄炭煙草銘酒小売)、金岡屋(平田、物品販売業、塩油肥料卸小売)、岡崎屋(大塚、物品販売業、酒類醤油味噌卸小売)、油金(金子、物品販売業、油荒物卸小売)、榎庄(榎本、物品販売業、白米雑穀卸小売)、折原商店(折原、物品販売業、薪炭卸小売)、足立屋(椎橋、物品販売業、呉服太物卸小売)、河野屋(河野、物品販売業、白米小売)、山口商店(山口、物品販売業、白米乾物薪炭卸小売)、梅川(醍醐、物品販売業、類小売)、喜内古屋(山崎、料理店業、寿司飲食店)、瀬田(金銭貸付業、質商)、小松屋(藤原、料理店業料理)、豊島屋(板橋、物品販売業、呉服太物卸小売)がいる[5]
  • 『日本紳士録』によると、白米商の田中がいる[6]

地主・家主

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日本紳士録』によると、板橋町の地主家主は、飯田[7]、瀬田、田中[6][8][9][10]などがいた。

地域

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教育

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相談

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交通

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鉄道路線

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道路

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名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

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神社

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宗教

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遺跡・その他

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出身・ゆかりのある人物

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政治・経済

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芸能

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脚注

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  1. ^ a b 『大東京年誌 昭和7年 第1』第五編 隣接郡部473 - 475頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月9日閲覧。
  2. ^ a b c 『自治団体之沿革』36 - 40頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月9日閲覧。
  3. ^ 『板橋町誌』162 - 164頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月9日閲覧。
  4. ^ 『職員録 明治30年現在(乙)』東京府15頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月6日閲覧。
  5. ^ 『日本商工営業録 明治31年9月刊(第1版)』東京府北豊島郡527頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月10日閲覧。
  6. ^ a b 『日本紳士録 第38版』東京タの部462、464、465頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月25日閲覧。
  7. ^ a b 『日本紳士録 第40版』東京イ、ヰの部47、セの部312頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月26日閲覧。
  8. ^ a b c 『日本紳士録 第46版』東京セの部262頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年1月26日閲覧。
  9. ^ a b c 『日本紳士録 第41版』東京セの部337頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月26日閲覧。
  10. ^ 『日本紳士録 第46版』東京タの部275頁。
  11. ^ 『日本紳士録 第18版』東京い、ゐの部22頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月26日閲覧。
  12. ^ 『人事興信録 第7版』せ6頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年7月23日閲覧。
  13. ^ 『日本紳士録 第37版附録 多額納税者名簿』6頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年12月10日閲覧。

参考文献

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  • 『職員録 明治30年現在(乙)』印刷局、1897年。
  • 井出徳太郎編『日本商工営業録 明治31年9月刊(第1版)』、日本商工営業録発行所、1898 - 1902年。
  • 交詢社編『日本紳士録 第18版』交詢社、1913年。
  • 山田元礼『板橋町誌』板橋新聞社、1924年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
  • 篠田皇民『自治団体之沿革』東京都民新聞社、1930年。
  • 社会教育研究所編『大東京年誌 昭和7年 第1』社会教育研究所、1932年。
  • 交詢社編『日本紳士録 第37版附録 多額納税者名簿』交詢社、1933年。
  • 交詢社編『日本紳士録 第38版』交詢社、1934年。
  • 交詢社編『日本紳士録 第40版』交詢社、1936年。
  • 交詢社編『日本紳士録 第41版』交詢社、1937年。
  • 交詢社編『日本紳士録 第46版』交詢社、1942年。
  • 北豊島郡農会編『北豊島郡誌』北豊島郡農会、大正7年11月10日発行、1979年(昭和54年)9月25日復刻版発行。

関連項目

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