松阪大映劇場
松阪大映劇場(まつさかだいえいげきじょう)は、日本の映画館である[1][2][3][4][5][6][7][8]。1940年(昭和15年)前後に三重県松阪市湊町にアサヒ館(アサヒかん)として開館[9][10][11][12][13][14][15][16][17][18]、1960年(昭和35年)前後に現館名に改称した[19]。改称当時は大映の封切館であったが、1970年(昭和45年)前後に同系列から独立、成人映画館に業態変更した[7]。略称は松阪大映[5][7][8]。
種類 | 事業場 |
---|---|
略称 | 松阪大映 |
本社所在地 |
日本 〒515-0085 三重県松阪市湊町153番地 |
設立 | 1940年前後 |
業種 | サービス業 |
事業内容 | 映画の興行 |
代表者 | 支配人 大久保克己 |
資本金 | 1,000万円(2013年) |
従業員数 | 3人(2013年) |
主要株主 | アサヒ興業株式会社 |
関係する人物 |
的場信一(創業者) 大久保喜助 大久保克己 |
特記事項:略歴 1940年前後 アサヒ館として開館 1960年前後 現館名に改称 |
沿革
編集データ
編集歴史
編集正確な時期は不明であるが、第二次世界大戦前の1940年(昭和15年)前後の時期に、国鉄(現在のJR東海)松阪駅西口、湊町153番地に同館の前身であるアサヒ館が新築・開館された[9][10][11][12]。開館当時の同館は、的場信一の個人経営であり、支配人は大久保匡記、観客定員数は400名という記録が残っている[11][12]。
同館が建つ前の松阪市、市制施行以前の当時の飯南郡松坂町には、旧制中学校時代の小津安二郎が通ったことで知られる神楽座(愛宕町、経営後藤藤男)[9][10][21][22][23][24] のみが長らく存在し、アサヒ館とほぼ同時期に巴座(のちの巴映画劇場、日野町2丁目)が開館している[9][10][11]。当時のアサヒ館は、1,000人収容の神楽座、990人収容の巴座に比して、400人という比較的小さな映画館であった[11][12]。1942年(昭和17年)には、東宝映画が直営する松阪東宝映劇(平生町)が開館している[12]。
戦後の同館の経営は、的場信一の個人経営から、的場が代表を務めるアサヒ興業株式会社の経営に変わっている[13][14][15][16]。アサヒ興業株式会社は、1950年(昭和25年)1月に設立された[5]。同市内には、同館のほか戦前からの巴映画劇場があり、神楽座も残っていたが、1951年(昭和25年)12月16日に起きた「昭和の松阪大火」により全焼し、神楽座は火災後の復興はなされなかった[25][26]。1957年(昭和32年)までに国際劇場、松阪日活劇場(中町)、近代劇場(松阪近代劇場、京町)および近代コニー、いすず会館南劇・東劇(五十鈴町)、スバル座(松阪スバル座、新町)、松阪映画、紅葉座と多くの映画館が開館している[17]。同館は、1960年(昭和35年)前後に松阪大映劇場と改称、同時期に同館を経営するアサヒ興業の代表も、大久保喜助に変わっている[18][19]。このころは、大映の封切館であり、大映配給の映画をロードショー公開していた[7]。
1970年(昭和45年)6月、大映は日活と配給網を統合し、配給会社ダイニチ映配を設立するが、この前後に同系列から独立、成人映画館に業態変更した[7]。以降、日活ロマンポルノの三本立興行を始め、1988年(昭和63年)に日活が成人映画から撤退した後は、新日本映像の配給作品の三本立興行を行い、現在に至る[7][8]。同時期に、同館を経営するアサヒ興業の代表に大久保克己が就任している[1][2]。『映画年鑑 1992 別冊 映画館名簿』によれば、1990年代初頭の同市内の映画館は、同館と戦前からの巴映画劇場のほか、松阪近代劇場、松阪パールシネマ1・2(塚本町荒木、現在の塚本町81番地5号)の5館になっていた[3]。2001年(平成13年)になると、同館のほかは松阪パールシネマ1・2以外すべて閉館してしまっていたが、2013年(平成25年)現在では、同館は同市内に残る最後の映画館として、デジタルシネマではなく35mmフィルムによるプリント上映のみで営業を続けている[6]。
アサヒ興業
編集アサヒ興業株式会社(アサヒこうぎょう)は、日本の映画興行会社である[20]。「松阪大映劇場」を経営する、松阪商工会議所会員企業である[20]。
脚注
編集- ^ a b 年鑑[1987], p.308.
- ^ a b 名簿[1991], p.122.
- ^ a b 名簿[1992], p.83.
- ^ a b 年鑑[1995], p.264.
- ^ a b c d e f g h 年鑑[1998], p.270.
- ^ a b c d e f g 名簿[2013], p.133.
- ^ a b c d e f g 消えゆく淫灯、ネコジカ、2012年11月付、2013年8月20日閲覧。
- ^ a b c d 松阪大映、新日本映像、2013年8月20日閲覧。
- ^ a b c d 総覧[1930], p.579.
- ^ a b c d 昭和7年の映画館 三重縣 18館 Archived 2013年12月15日, at the Wayback Machine.、中原行夫の部屋(原典『キネマ旬報』)、2013年8月20日閲覧。
- ^ a b c d e f 年鑑[1942], p.10-67.
- ^ a b c d e f 年鑑[1943], p.490.
- ^ a b c 年鑑[1950], p.165.
- ^ a b c 年鑑[1951], p.312.
- ^ a b c 年鑑[1952], p.509.
- ^ a b c 年鑑[1956], p.99.
- ^ a b 昭和32年の映画館 三重県 110館 Archived 2013年4月16日, at the Wayback Machine.、中原行夫の部屋(原典『キネマ旬報』)、2013年8月20日閲覧。
- ^ a b 便覧[1958], p.133.
- ^ a b c 伊勢年鑑[1962], p.290.
- ^ a b c d e f g h アサヒ興業、松阪商工会議所、2013年6月14日付、2013年8月20日閲覧。
- ^ 小津安二郎氏、梅川文男(1952年筆)、三重大学、2013年8月20日閲覧。
- ^ 年鑑[1925], p.471.
- ^ 総覧[1927], p.674.
- ^ 総覧[1929], p.272.
- ^ 松阪市[1981], p.51.
- ^ 伊勢(松阪・山田・津)の文化が育んだ 世界の映画監督 小津安二郎、三重映画フェスティバル実行委員会、2013年8月20日閲覧。
参考文献
編集- 『日本映画年鑑 大正十三・四年』、アサヒグラフ編輯局、東京朝日新聞発行所、1925年発行
- 『日本映画事業総覧 昭和二年版』、国際映画通信社、1927年発行
- 『日本映画事業総覧 昭和三・四年版』、国際映画通信社、1929年発行
- 『日本映画事業総覧 昭和五年版』、国際映画通信社、1930年発行
- 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行
- 『映画年鑑 昭和十八年版』、日本映画協会、1943年発行
- 『映画年鑑 1950』、時事映画通信社、1950年
- 『映画年鑑 1951』、時事映画通信社、1951年
- 『映画年鑑 1952』、時事映画通信社、1952年
- 『映画年鑑 1956』、時事映画通信社、1956年
- 『映画便覧 1958』、時事映画通信社、1958年
- 『伊勢年鑑 1962』、伊勢新聞社、1962年
- 『松阪市史 第10巻 史料篇 民俗』、松阪市史編さん委員会、蒼人社、1981年3月 ISBN 4326200219
- 『映画年鑑 1987』、時事映画通信社、1987年
- 『映画年鑑 1991 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1991年
- 『映画年鑑 1992 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1992年
- 『映画年鑑 1995』、時事映画通信社、1995年
- 『映画年鑑 1998』、時事映画通信社、1998年
- 『映画年鑑 2013 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、2013年