松田重助
松田重助(まつだ じゅうすけ、天保元年〈1830年〉 - 元治元年6月6日〈1864年7月9日〉)は、幕末の尊皇攘夷派志士。肥後国熊本出身。諱は範義(のりよし)。
経歴
編集熊本藩士・林桜園に国学を学び[1]、宮部鼎蔵に兵学を学ぶ。弘化3年(1846年)に藩の小役人に取り立てられるも大政を論じて働かず、閑職である二の丸玄関番に格下げされた。嘉永6年(1853年)に江戸へ出ると過激な尊皇攘夷活動に参加。幕府によって指名手配され、人相書が貼り出されるようになったが、変装・変名などは用いずに大胆な活動を続ける。
文久3年(1863年)の八月十八日の政変で、公卿たちと共に京都を去る(七卿落ち)。再び上洛して同志らと再挙を謀っていたところ、元治元年(1864年)6月5日、池田屋事件に遭遇し、新選組に捕縛される。その翌朝、脱走して河原町まで逃げたが、見廻りの会津藩士らによって殺害された。享年35。明治24年(1891年)、従四位を贈られる[2]。
脚注
編集- ^ “松田重助(kotobank)”. 2015年1月15日閲覧。
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.6