松永高司
松永 高司[1](まつなが たかし[1]、1936年(昭和11年)6月6日[1] - 2009年(平成21年)7月11日[1][2][3][4])は、日本の実業家。
松永家の4兄弟で全日本女子プロレスを創業し[3][1]。、社長・会長[3]を務めた[1][5]。
日本女子プロレスの父の異名を持つ。
生涯
編集1936年(昭和11年)6月6日、東京都目黒区に生まれる[1]。
中学卒業後[1]、家業の洋品店を手伝いながら[1]、妹の吉葉礼子[2]が女子プロレスラーとしてデビューしたのを機に[5]、18歳で[5]1954年(昭和29年)から松永家の兄弟4人で女子プロレスの世界に飛び込む。同年発足した「全日本女子プロレス協会」で[5]レフェリー[1]、コーチを務めた。
最初期の女子プロレスは「見世物」であり[5]、ナイトクラブやストリップ劇場が試合会場だった[5]4名の女子プロレスラーと、2名の小人プロレスラーが八畳ほどのマットの上で試合をした[5]。高司はレフェリー兼リングアナウンサーの二足の草鞋を履いて、1ヶ所5日ずつ、それこそ休み無しで全国をドサ回りをした[5]。ピンク映画の幕間に試合をしたこともあった[5]。
NWAと提携を結び、ファビュラス・ムーラの来日を実現させた。
1968年[5](昭和43年)[1]、いくつかあった団体を高司が中心となって万年東一とともにいくつかあった女子プロレス団体を纏め上げ「全日本女子プロレス興業」を創設[5][1]。社長に就任した[1]。この時、日女のほとんどのレスラーが松永を慕い、旗揚げに参加した。
しかし「ドサ回り時代」のツケは大きく、体育館に興行を申し入れても「劇場ではないから貸せません」と門前払いを食らった[5]。それでも「女子プロレスは歴としたスポーツです」と説得しやっと興行に漕ぎ着け、次の会場確保の説得材料とした[5]。
この当時の観客は男性ばかりで、胸や性的な箇所の露出を要求された[5]選手が花道を進むとあちこちから手が伸び、選手が客の下敷きになり体中を触られた[5]。乱闘は選手同士ではなく、選手と客の間で起こるものだった[5]。
万年の辞任後の1987年(昭和62年)から会長を歴任した[1]。
「ピストル(男子プロレスでのガチンコ)」「三禁(禁酒・禁煙・禁男)」「25歳定年制」を提唱し、さらにフジテレビでの試合中継も実現させて女子プロブームを興した。
また地方興行や全女事務所の車庫で行われたガレージマッチでは、松永社長が自ら出向いて焼きそばを作ることでも有名だった。
平成になり1990年代に入ると、目の肥えたファンが増えた。男子プロレスと同等に女子プロレスも面白いと認めてくれるようになった。観客か選手を大切に見守ってくれるようになった、と感じるようになった[5]。お客さんが選手を育ててくれる。40年もの間の経験によりこの信念が培われた[5]。
2005年(平成17年)[1]4月、資金繰りの悪化と体調不良のため全女会長を勇退し、全女を解散した[1]。
以降は神田駅近くでおでん屋を営んだ後[6][7]、療養に入る。全女のWWWA世界シングルのベルトは、松永と旧知の仲で色々と若手の世話をした人物におでん屋を譲ってくれた礼として預けており「タダでは何だからと思って」と、20万円から30万円程度の当時欲しかった金を代わりに貰っていた[6]。
2009年(平成21年)7月11日[1][2][3] 16時56分、間質性肺炎[1][2][3]のため東京都大田区の東邦大学医療センター大森病院で死去[8]。73歳没[1][2][3]。その際に「もう一度横浜アリーナでやりたい」と長与千種に遺言を託した[9]。
松永家
編集全女は松永家による同族経営であり、高司が中心を担い4兄弟及びその親族が役員に名を連ねていた。特に次男・健司、三男・高司、四男・国松、五男・俊国は「松永四兄弟」として有名となった[10]。更に配偶者や女性の親族にも元女子プロレスラーが多い。
- 長男 - 電気関係の会社を経営し[10]全女の経営には関わらなかった[10][4]。北斗晶などの元全女女子プロレスラーたちからは「よっちゃんパパ」と呼ばれている[4]。
- 次男:松永健司[2][4] - 全女副会長[4]。「ミスター郭」のリングネームでレフェリーも務めた[10]。2020年(令和2年)2月6日、肺炎のため死去[11]。
- 三男:松永高司[4] - 全女会長[4]。
- 妻:遠藤恵子 - 元女子プロレスラー
- 長女:吉葉礼子[2] - 元プロ女子レスラー
- 長女:影かほる - 元女子プロレスラー
- 次女:山口洋子[2] - 元女子プロレスラー。1989年(平成元年)10月、膀胱癌のため死去[2]。享年50[2]。
- 四男:松永国松[12][13][4][14] - 1941年(昭和16年)8月30日、東京都目黒区生まれ[14]。プロボクサーとして活動後[14]、兄・高司らと共に全女を設立[14][12]。元は全女の巡業時の責任者:ロードマネージャーであり[12][13][14]マッチメイクを担当[13][12][14]。その他、コーチや[13]「ジミー加山」のリングネームでメインレフェリーも務めた[14][12][10][15]。また全女の選手管理部長を務め「国マネージャー」と呼ばれ選手たちから慕われた[12]。長与千種の「女子プロレスラーとしての育ての親」であり、長与千種は松永国松の最高傑作と言われている[15]。長く副社長を務めていたが[16]、全女解散時の直前には社長も務めた[4][14]。全女解散から4ヶ月後の2005年(平成17年)8月17日、品川区内のビルから飛び降り自殺を図り死去[12][13][2][15][4][14]。享年63[2][4][14]。
- 五男:松永俊国[12][13][2][4][17] - 全女専務[4]。逝去時は社長[17][12]。全女レフリーの中心的人物であり審判部長を務めた[10]。2002年(平成14年)9月22日[12][17]、心不全のため死去[12][2][17]。享年57[12][2][17]。
- 次男:松永正嗣[18] - 取締役・渉外担当
- 従姉妹:ジャンボ宮本 - 元女子プロレスラー、岡田京子 - 元女子プロレスラー
- 遠戚:初代赤木まり子 - 元女子プロレスラー
著書
編集- 松永高司(述)『女子プロレス 終わらない夢 全日本女子プロレス元会長 松永高司』扶桑社、2008年2月。ISBN 9784594055806。
登場作品
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 現代物故者事典 2009~2011,日外アソシエーツ 2012, p. 571.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o “全日本女子プロレス創設、松永ファミリー最後の生き残り健司さん死去”. デイリースポーツ online (2020年2月9日). 2024年12月23日閲覧。
- ^ a b c d e f 「朝日新聞」2009年(平成21年)7月13日付 朝刊 17面「松永高司さん死去」:2024年(令和6年)12月18日、宇都宮市立中央図書館にて「朝日新聞クロスサーチ」で閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n “命日”. 北斗晶オフィシャルブログ「そこのけそこのけ鬼嫁が通る」Powered by Ameba (2024年7月11日). 2024年12月23日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「読売新聞」1995年(平成7年)4月1日付 東京朝刊 28面「なんてったって女子プロレス」(5)「客のまなざし温かく」「40年後市民権」
- ^ a b 週刊プロレス2017年9月13日号pp.70.
- ^ 女子プロレスの父 RINGSTARS 2007年6月8日
- ^ 宝島社 別冊宝島『プロレス暗夜行路』P75より。
- ^ 【長与千種連載最終回】プロレス復帰し「新団体マーベラス」スタート東京スポーツ 2014年12月28日
- ^ a b c d e f “1984/12/5 雑誌「プロレスリングFOCUS」 その① 阿部四郎記事”. 時系列でみる! 極悪同盟 ダンプ松本 ファンブログ (2022年11月17日). 2024年12月30日閲覧。
- ^ 全日本女子プロレスを設立した松永ファミリーの松永健司さん肺炎で死去、84歳 - スポーツ報知 2020年2月9日
- ^ a b c d e f g h i j k l m “松永国松(ジミー加山)飛び降り自殺…なぜ女子プロレスはこうなったのか?”. MMA IRONMAN (2005年8月20日). 2024年12月30日閲覧。
- ^ a b c d e f “全女時代お世話になった人たち<その2>松永国松社長”. ロッシー小川ブログ MY FAVORITE LIFE (2018年10月8日). 2024年12月23日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 現代物故者事典 2003~2005,日外アソシエーツ 2006, p. 561.
- ^ a b c “「認めたくなかった…」“育ての親”が突然の自死、長与千種(59歳)の初告白…故・松永国松さんに告げられた「おまえのような選手には2度と…」- プロレス”. Number Web - ナンバー (2024年9月22日). 2024年12月23日閲覧。
- ^ 「読売新聞」1990年(平成2年)7月2日付 東京朝刊 30面「全日本女子プロレスの副社長が横断中の老人はね、死なす」北海道・知内
- ^ a b c d e 現代物故者事典 2000~2002,日外アソシエーツ 2003, p. 570.
- ^ “T-1グランプリを検証!Vol.4 ターザン山本氏、松永正嗣氏が大絶賛!”. 極上の“T-1二見激情”見参 (2006年7月16日). 2024年12月23日閲覧。
- ^ “マッハ文朱、ビューティーペア、クラッシュギャルズ 全日本女子プロレスの松永家の菩提寺を訪ねた【山崎照朝コラム】”. 中日スポーツ・東京中日スポーツ (2021年9月24日). 2024年12月25日閲覧。
参考資料
編集- 日外アソシエーツ株式会社 編『現代物故者事典 2009~2011』日外アソシエーツ株式会社、2012年3月26日、571頁。ISBN 9784816923579。
- 松永家に関する資料
- 日外アソシエーツ株式会社 編『現代物故者事典 2000~2002』日外アソシエーツ株式会社、2002年3月25日、570頁。ISBN 4816917691。
- 日外アソシエーツ株式会社 編『現代物故者事典 2003~2005』日外アソシエーツ株式会社、2006年3月27日、561頁。ISBN 4816919694。
外部リンク
編集- 「会長の棺に土下座したよ」長与千種が涙を流して反発した“遺言の中身”…解散から19年、全日本女子プロレス興業を作った“松永一族”本当の正体|プロレス - Number Web - ナンバー
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