松永碩
日本のサッカー選手
松永 碩(まつなが せき[1]、1928年6月25日[1] - 2013年3月4日)は、日本の実業家で元サッカー選手。ポジションはFW。「ベルリンの奇跡」の立役者であった松永行、松永信夫は実兄。
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名前 | ||||||
カタカナ | マツナガ セキ | |||||
ラテン文字 | MATSUNAGA Seki | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1928年6月25日 | |||||
出身地 | 静岡県 | |||||
没年月日 | 2013年3月4日(84歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
志太中学校 | ||||||
早稲田大学 | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
日立 | ||||||
東京クラブ | ||||||
代表歴 | ||||||
1951 | 日本 | 1 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
人物
編集静岡県出身。1951年に早稲田大学4年次に堀口英雄と共に日本代表に選出。3月にインド・ニューデリーで開催されたアジア競技大会に参加し、アフガニスタン戦で代表デビューを飾った。
実兄の松永信夫も日本代表の中心選手であったが、戦時中に憲兵将校であった為、渡航許可が下りず不参加となった。
早大卒業後に堀口と共に日立製作所本社に入部。中心選手として全国リーグ創設前の日立を支えた。また1955年には東京クラブの一員として第1回都市対抗選手権優勝、翌年も大会連覇に貢献している。
現役引退後は社業に専心し、後に日立化成商事の社長を務めた[2]。
2013年3月4日、呼吸不全のため死去[3]。84歳没。
所属クラブ
編集- 静岡県立志太中学校(現静岡県立藤枝東高等学校)
- 早稲田大学
- 日立製作所本社
- 東京クラブ
代表歴
編集- 1951年アジア競技大会
試合数
編集- 国際Aマッチ 1試合 0得点(1951)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1951 | 1 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 |
通算 | 1 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 |
出場
編集No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1951年03月09日 | ニューデリー | アフガニスタン | ○2-0 | 二宮洋一 | アジア大会 |
出典
編集- ^ a b 『日本代表公式記録集2008』 日本サッカー協会、2008年、601頁。
- ^ 松永碩氏が死去 元日立化成商事社長 日本経済新聞 2013年3月5日閲覧
- ^ サッカー元日本代表の松永碩氏死去 - サンケイスポーツ - archive.today(2013年4月11日アーカイブ分)