松村龍雄
松村 龍雄(まつむら たつお、1868年2月25日(慶応4年2月3日) - 1932年7月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
生誕 |
1868年2月25日 佐賀県 |
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死没 | 1932年7月18日(64歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1887年 - 1922年 |
最終階級 | 海軍中将 |
指揮 |
臨時南洋群島防備隊司令官 第1戦隊司令官 練習艦隊司令官 第1水雷戦隊司令官 馬公要港部司令官 旅順要港部司令官 |
戦闘 |
日露戦争 *日本海海戦 第一次世界大戦 |
経歴
編集佐賀県出身。松村安種海軍少佐の長男として生まれる。攻玉社を経て、1887年7月、海軍兵学校(14期)を卒業し、1889年6月に海軍少尉任官。練習艦「干珠」航海長、「磐城」航海長、運送船和歌浦丸監督、軍令部出仕、西海艦隊参謀、「比叡」航海長などを歴任。海軍大学校では、丙種、航海科、将校科(1期)で学び、1897年12月、将校科甲種(1期)を首席で卒業した。
→詳細は「海軍大学校卒業生一覧 § 将校科甲種1期」を参照
常備艦隊参謀、侍従武官などを経て、日露戦争には「吾妻」副長として出征し、日本海海戦では「三笠」副長として参戦した。その後、イギリス駐在、第2艦隊参謀長、海大教頭、「安芸」艦長などを経て、1912年12月、海軍少将に進級。
海軍教育本部第1部長、第2南遣枝隊司令官などを歴任し、第一次世界大戦では臨時南洋群島防備隊司令官となった。さらに、第1戦隊司令官、練習艦隊司令官、第1水雷戦隊司令官などを経て、1916年12月に海軍中将となった。馬公要港部司令官、将官会議議員、旅順要港部司令官などを経て、1922年4月、予備役に編入された。
栄典・授章・授賞
編集- 位階
- 1891年(明治24年)12月14日 - 正八位[1]
- 1893年(明治26年)1月31日 - 従七位[2]
- 1895年(明治28年)11月26日 - 正七位[3]
- 1898年(明治31年)9月10日 - 従六位[4]
- 1907年(明治40年)11月30日 - 従五位[5]
- 1913年(大正2年)2月10日 - 正五位[6]
- 1916年(大正5年)12月28日 - 従四位[7]
- 勲章等
- 1902年(明治35年)5月10日 - 明治三十三年従軍記章[8]
- 1905年(明治38年)5月30日 - 勲四等瑞宝章[9]
- 1915年(大正4年)11月7日 - 旭日重光章・大正三四年従軍記章[10]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 勲一等瑞宝章[11]
- 外国勲章佩用允許
親族
編集- 弟 松村菊勇海軍中将
脚注
編集- ^ 『官報』第2539号「叙任及辞令」明治24年12月15日
- ^ 『官報』第2875号「叙任及辞令」1893年2月1日。
- ^ 『官報』第3725号「叙任及辞令」1895年11月27日。
- ^ 『官報』第4562号「叙任及辞令」1898年9月12日。
- ^ 『官報』第3729号「叙任及辞令」1907年12月2日。
- ^ 『官報』第159号「叙任及辞令」1913年2月12日。
- ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1916年12月29日。
- ^ 『官報』第5861号・付録「辞令」1903年1月19日。
- ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
- ^ 『官報』第1084号「叙任及辞令」1916年3月15日。
- ^ 中野文庫・旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 『官報』第8038号「叙任及辞令」1910年4月12日。