松本光司 (操演技師)
職歴
編集1953年、映画業界入り[1]。1961年、 新東宝から東宝特殊技術課にの操演部に移籍[出典 2][注釈 1]。新東宝時代は、監督の石井輝男から気に入られていたという[2][6]。映画『モスラ対ゴジラ』(1964年)以降、中代文雄のもとで操演技師を務め、東宝特撮作品の多くに携わる[1]。
1993年4月1日、定年退職。最後の参加作品は『ゴジラvsモスラ』であった[2][3]。「特殊美術課最後の操演師」とも称される[6]。
人物・エピソード
編集自身の技術について、潤沢な予算があれば良い道具を揃えられたが、予算がない中では古い道具を使うしかなく、撮影時間もないため早く撮らねばならなかったことなどから、ピアノ線の芸術になってしまったと述べている[7]。
生前は、物を持つと、それを吊るのに必要なピアノ線の太さがわかると豪語していた[3]。
東宝へ移籍したのは、当時盛んだった所内野球チームの助っ人として野球の腕を買われたためであると述べていた[2]。
東宝で使われていた操演用のクレーンは、中代が松本の身長に合わせて制作したものとされる[2]。
平成ゴジラシリーズでは操演を要する怪獣が多かったため、操演が尾だけのゴジラのシーンではホッとしていたという[7]。
担当作品
編集- 1961年7月30日 - モスラ[6][注釈 2]
- 1962年3月21日 - 妖星ゴラス[9][2](ノンクレジット)
- 1964年4月29日 - モスラ対ゴジラ[1][3]
- 1973年12月29日 - 日本沈没
- 1974年8月3日 - ノストラダムスの大予言
- 1974年12月28日 - エスパイ
- 1975年3月15日 - メカゴジラの逆襲[4]
- 1975年7月12日 - 東京湾炎上
- 1976年10月2日 - 大空のサムライ
- 1977年12月17日 - 惑星大戦争
- 1978年8月12日 - 火の鳥
- 1981年8月8日 - 連合艦隊
- 1984年3月17日 - さよならジュピター
- 1984年8月11日 - 零戦燃ゆ
- 1984年12月15日 - ゴジラ
- 1987年9月26日 - 竹取物語
- 1988年9月17日 - アナザー・ウェイ ―D機関情報―
- 1989年7月22日 - ガンヘッド
- 1989年12月16日 - ゴジラvsビオランテ
- 1991年12月14日 - ゴジラvsキングギドラ
- 1992年12月12日 - ゴジラvsモスラ[4]
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e f g ゴジラ大百科 1990, p. 100, 「ゴジラ・スタッフ名鑑」、最新ゴジラ大百科 1991, p. 97, 「ゴジラスタッフ名鑑」
- ^ a b c d e f g h i 平成ゴジラ大全 2003, pp. 192–194, 「破之参 『ゴジラVSモスラ』 操演技師の師弟対決」
- ^ a b c d e f 平成ゴジラパーフェクション 2012, p. 109, 「平成ゴジラの特撮4 操演」
- ^ a b c d 野村宏平、冬門稔弐「2月1日 / 2月2日」『ゴジラ365日』洋泉社〈映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、40頁。ISBN 978-4-8003-1074-3。
- ^ 日本経済新聞1992年12月21日号の本人の証言
- ^ a b c d 白石雅彦「モスラ操演の歴史」『別冊映画秘宝 モスラ映画大全』洋泉社〈洋泉社MOOK〉、2011年8月11日、101頁。ISBN 978-4-86248-761-2。
- ^ a b 東宝SF特撮映画シリーズ7 1993, pp. 137–143, 「特撮スタッフ座談会」
- ^ 平成ゴジラ大全 2003, pp. 300–303, 「急之参 『ゴジラVSデストロイア』 川北組、最後の苦闘」
- ^ “映画資料室”. viewer.kintoneapp.com. 2020年5月15日閲覧。
出典(リンク)
編集参考文献
編集- Gakken MOOK(Gakken)
- 『ゴジラVSモスラ』東宝出版・商品事業室〈東宝SF特撮映画シリーズVOL.7〉、1993年1月15日。ISBN 4-924609-43-9。
- 『平成ゴジラ大全 1984-1995』編著 白石雅彦、スーパーバイザー 富山省吾、双葉社〈双葉社の大全シリーズ〉、2003年1月20日。ISBN 4-575-29505-1。
- 『平成ゴジラパーフェクション』監修:川北紘一、アスキー・メディアワークス〈DENGEKI HOBBY BOOKS〉、2012年2月10日。ISBN 978-4-04-886119-9。