松平重則
安土桃山時代から江戸時代前期の武将・大名。上総百首藩主、下野皆川藩初代藩主。従五位下・内膳正、大隅守。松平重勝の三男。重則流能見松平家初代
松平 重則(まつだいら しげのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。上総国百首藩主、下野国皆川藩初代藩主。官位は従五位下・内膳正、大隅守。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正8年(1580年) |
死没 | 寛永18年12月27日(1642年1月27日) |
改名 | 半次郎、伝次郎(幼名)→重則 |
戒名 | 松厳院殿憲誉珠宝大居士 |
墓所 | 東京都千代田区麹町の心法寺 |
官位 | 従五位下内膳正、大隅守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川秀忠→家光 |
藩 | 上総百首藩主→下野皆川藩主 |
氏族 | 能見松平家 |
父母 | 父:松平重勝、母:鳥居忠吉娘 |
兄弟 |
重忠、重長、重則、重信、勝隆、 岩瀬氏与室ら |
妻 | 正室:屋代秀正娘・称光院 |
子 |
重正、西郷延員正室、神保茂明継室、 松平勝隆養女 |
生涯
編集慶長3年(1598年)から徳川秀忠の家臣として仕えるようになり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、秀忠に従って信濃国上田城攻めに参加した。その後、伏見城や二条城の城番となり、慶長18年(1613年)には御徒士頭となる。元和2年(1616年)に秀忠の弟・松平忠輝が改易された際、その蟄居を伝える使者役を務めた。
元和7年(1621年)1月21日に大番頭となる。寛永3年(1626年)12月に叙任する。寛永10年(1633年)4月23日、4000石を加増されて合計1万500石の大名となり、上総百首藩主となる。