松平忠誠 (肥前国島原藩主)
松平 忠誠(まつだいら ただなり)は、江戸時代後期の大名。肥前国島原藩主。深溝松平家14代当主。官位は従五位下・主殿頭。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文政7年1月17日(1824年2月16日) |
死没 | 弘化4年4月16日(1847年5月30日) |
改名 | 勝次郎・又八郎(幼名)、忠誠 |
別名 | 縫殿(通称) |
墓所 | 愛知県額田郡幸田町深溝の本光寺 |
官位 | 従五位下・主殿頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶 |
藩 | 肥前島原藩主 |
氏族 | 深溝松平家 |
父母 | 松平忠侯、阿部正精娘 |
兄弟 | 恭之助、忠誠、万次郎、忠精、鍵吉郎、繁丸 |
妻 | 太田資始の娘 |
子 | 忠精 |
略歴
編集文政7年(1824年)1月17日、先代藩主・松平忠侯の次男として誕生した。
天保11年(1840年)4月9日、父が42歳の厄払いの宴会の最中に病に倒れて急死したため家督を継ぎ、12月16日に従五位下・主殿頭に叙位・任官する。藩政ではシーボルトの弟子となって西洋医学を学び、藩の医学校・済衆館に薬草園を作り、薬草を栽培させた。
系譜
編集父母
正室
- 太田資始の娘
養子
- 松平忠精 - 忠侯の四男