松平勝房
松平 勝房(まつだいら かつふさ)は、江戸時代中期の大名。下総国多古藩2代藩主。官位は従五位下・美濃守。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄15年3月18日(1702年4月14日)[1] |
死没 | 延享3年12月30日(1747年2月9日)[1] |
改名 | 源三郎(幼名)[2]→勝房 |
別名 | 大内記[注釈 1] |
戒名 | 徳広院殿随巌道喜大居士[3] |
墓所 | 東京都豊島区巣鴨の白泉寺 |
官位 | 従五位下美濃守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 下総多古藩主 |
氏族 | 久松松平家康俊流 |
父母 | 父:松平勝以、母:池田政武養女 |
兄弟 |
権太郎、勝房 養兄弟:神保茂清室、水野吉藤室 |
妻 | 正室:水野忠定娘[3] |
子 | 養子:勝尹 |
生涯
編集元禄15年(1702年)3月18日、初代藩主・松平勝以の次男として誕生。長兄・権太郎は早世しているために世子となり、正徳3年(1713年)9月15日に12歳で徳川家宣に御目見している[3]。享保元年(1716年)12月に従五位下・美濃守に叙位・任官する[3]。享保13年(1728年)4月9日、父の死去により家督を継いだ[3]。享保14年(1729年)、300俵取りの分家当主であった松平勝尹[注釈 2]を養子に迎えた[4][2]。
享保21年(1736年)4月6日、家督を勝尹に譲って隠居[3]。延享3年(1746年)12月30日に死去した[3][1]。享年45[3]。
系譜
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二
- 『寛政重修諸家譜 第三輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082717/150