松平信正 (丹波亀山藩主)
江戸時代後期の大名。丹波亀山藩8代藩主(最後)。従五位下・図書頭。形原松平家18代、子爵亀岡松平家初代。松平信豪の七男
松平 信正(まつだいら のぶまさ)は、江戸時代後期の大名、明治時代の日本の政治家・華族。爵位は子爵。形原松平家18代当主で丹波国亀山藩の第8代(最後)藩主、同藩初代(最後)知藩事、貴族院子爵議員などを歴任。
![]() 松平信正 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 嘉永5年4月29日(1852年6月16日) |
死没 | 明治42年(1909年)10月28日) |
戒名 | 恭徳院殿弘誉昌雲龍峰大居士 |
墓所 | 京都府亀岡市北古世町の光忠寺 |
官位 | 従五位下・図書頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 丹波亀山藩主 |
氏族 | 形原松平家 |
父母 |
父:松平信豪、母:不詳 養父:松平信義 |
兄弟 | 松平信進正室、貞鏡院、信敏、信正、牧野康哉正室ら |
妻 |
正室:西尾忠受の娘・育 継室:宗義和の娘・植子 |
子 | 信興、土御門晴行 |
略歴
編集嘉永5年(1852年)4月29日、第6代藩主・松平信豪の七男として誕生した。はじめ家督は兄の信敏が継ぐ予定だったが、信敏が慶応元年(1865年)に死去したため、信正が第7代藩主・松平信義の養子となって、慶応2年(1866年)に家督を継いだ。官位は従五位下・図書頭。
幕末期には佐幕派だったが王政復古後、旧幕府勢力が朝敵となると見限り、東征軍山陰道鎮撫総督西園寺公望に帰順して以降、官軍に参加した[1][2]。明治2年(1869年)の版籍奉還で亀山藩知事となり、伊勢亀山藩との混同を避けるために亀山を亀岡と改称した。明治4年(1871年)、廃藩置県で知藩事を免官される。
明治12年(1879年)に大蔵省御用掛、明治14年(1881年)に四等検査官、明治22年(1889年)に帝室制度取調掛、明治23年(1890年)に元老院書記官となった。また、1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵し[3]、明治23年(1890年)7月10日から明治30年(1897年)7月9日まで貴族院子爵議員を務めている[4]。
明治42年(1909年)10月28日に死去した。享年58。
系譜
編集脚注
編集参考文献
編集- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (亀岡)松平家初代 1884年 - 1909年 |
次代 松平信興 |