松倉 恂(まつくら じゅん/まこと、文政10年1月3日1827年1月29日) - 明治37年(1904年5月3日)は、幕末仙台藩の重臣。維新後は福澤諭吉のとりなしで官吏に転じた。通称は良助または良輔、のちと名乗る。

まつくら じゅん

松倉 恂
生誕 1827年1月29日
陸奥国
死没 (1904-05-03) 1904年5月3日(77歳没)
出身校 慶應義塾
職業 仙台藩郡奉行軍艦奉行
仙台区
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経歴

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戊辰戦争

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仙台藩町奉行松倉保定(三右衛門)の子として陸奥国に生まれる。

藩主・伊達慶邦小姓からすすみ、郡奉行及び出入司勘定奉行並)に任命される[1]。仙台藩内の開国派の代表格として、但木土佐大槻磐渓と並んで仙台藩の洋式装備化に尽力。洋式軍隊・額兵隊の創設に際して、星恂太郎の才能を見出して大番士に任命させる。家老・但木土佐のもとで公儀使出入司として藩財政を取り仕切った。松本要人大童信太夫手塚庄左衛門後藤正左衛門らと共に薩長に対する強硬な主戦派となる。

戊辰戦争が始まると、仙台藩の兵器奉行・軍艦奉行として江戸に在り、武器・弾薬の調達を担当。藩で保有していた銃砲器は旧式で役に立たず、江戸でオランダ商人から武器を購入した。ライフル銃1,500挺、エミエー銃1,300挺、ピストル300挺を配備させる。しかし、いざ戦争が始まると、伊達藤五郎伊達筑前伊達将監伊達弾正伊達安芸らの一門が非戦論を唱え始めて対立した。奥羽越列藩同盟結成に参加し、互角に戦争を進めていたが、榎本武揚艦隊の到着の遅れから、敗戦が濃厚になった。

榎本艦隊の到着があと一ヶ月早まれば、情勢は大きく変わったと分析されている[2]

維新後

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戊辰戦争後、家財欠所、家跡没収の処分を受けた。福沢諭吉の政府へのとりなしにより、命は助かったが、明治2年(1869年)に幽閉。その後脱藩し、江戸に出て黒川剛(大童信太夫)らと共に慶應義塾に寄宿した。同門に、渡部久馬八越後長岡藩士)、遠藤敬止会津藩士)、猪飼麻次郎浜野定四郎が居る。

慶應義塾を出た後は、仙台藩より伊達家家令を仰せつけられ、愛媛岩手の各県に出仕。仙台区の「郡区町村編制法」によって、旧仙台城下は仙台区とされ、県は区役所を建てて初代仙台区長(現在の仙台市長)に就任した。松倉の仙台市の発展に寄与するところは大きく、富田鉄之助や遠藤敬止と共に東華学校・宮城英学校の創設や国立七十七銀行設立に尽力。他、大槻文彦と共に明治26年(1893年)に郷土史を研究する「仙台文摩会」を結成し、図書の収集保存に務めた。

関連項目

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脚注

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  1. ^ 仙台市 『仙台市史』 66,P
  2. ^ 星亮一『仙台戊辰戦史―北方政権を目ざした勇者たち』261,P 三修社 ISBN 4384041993

外部リンク

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参考文献

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