東雲焼
愛知県において明治時代に作製された焼き物
概要
編集1893年(明治26年)、名古屋市末広町在の元尾張藩士[1]木全年輝により、愛知郡古沢村大字東古渡字東雲において始められた[2][3]。また、同時に末広町において販売が行われた[1]。創業期には不識庵素三がかかわったとされる[4]。茶器や瓶・甕・日用皿などを中心に生産[5]。狂言絵や富士絵のものが人気を博していたとされる[2]。また、製法としては御庭焼の系譜に属する[5]。原料は同郡御器所村瀬戸付近において採取したものを使用していた[5]。明治末期に廃絶したとするもの[2]、1924年(大正13年)に横井米禽に売却し、以降は米禽焼として生産されたとする資料がある[1]。窯の跡地は、のちの名古屋市民会館の敷地にあたる[2]。
脚注
編集参考文献
編集- 小野賢一郎 編「東雲焼」『陶器大辞典 第三巻』賓雲舎、1940年12月20日、155頁。
- 小野賢一郎 編「不識庵素三」『陶器大辞典 第五巻』賓雲舎、1941年4月20日、36頁。
- 山田幸太郎 著「257 東雲焼窯址」、名古屋市文化財調査保存委員会 編『名古屋史蹟名勝紀要』芸術案内社、1954年12月25日、59頁。
- 山川一年「東雲焼」『愛知百科事典』中日新聞社、1976年、382頁。
- 仲野泰裕 著「東雲焼」、矢部良明 編『角川日本陶磁器大辞典』角川書店、2002年8月。ISBN 4040232003。