東尾 平太郎(ひがしお へいたろう、1851年10月1日嘉永4年9月7日[1])- 1919年大正8年)10月8日[2])は、明治時代の政治家実業家衆議院議員(7期)。

東尾平太郎

経歴

編集

和泉伯太藩志紀郡林村(大阪府志紀郡沢田村南河内郡道明寺村、道明寺町、藤井寺道明寺町、美陵町を経て現藤井寺市)の豪農の家に生まれる[3]漢学を修める[2]1881年(明治14年)3月、大阪府会議員に当選[4]。同常置委員、同郡部会委員を歴任する[2][4]。ほか、大阪府農学校(のちの大阪獣医畜産専門学校、浪速大学を経て現大阪府立大学)長、大阪府農会会頭、パリ大博覧会評議員、高野鉄道社長などを務めた[2]

1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では大阪府第7区から出馬し当選[2]。以来、第2回から第4回までと、第7回から第9回総選挙まで当選し、衆議院議員を通算7期務めた[2]

脚注

編集
  1. ^ 篠田 1891, 90頁.
  2. ^ a b c d e f 衆議院、参議院 編 1962, 412頁.
  3. ^ 篠田 1891, 90-91頁.
  4. ^ a b 篠田 1891, 91頁.

参考文献

編集