東宝映画配給

1936年から1937年まで存在した映画会社

東寶映畫配給株式會社(とうほうえいがはいきゅう、1936年6月30日設立 - 1937年9月10日 合併)は、かつて東京の銀座マツダビルに存在した日本の映画会社である。第二次世界大戦前、阪急資本が設立した「株式会社東京宝塚劇場」の傘下に小林一三が設立した、映画の配給会社である。東宝の前身の1社となったことで知られる。

略歴・概要

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日比谷系の配給会社

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1936年(昭和11年)6月、当時、東京市世田谷区にあったポストプロダクション写真化学研究所」とその映画スタジオピー・シー・エル映画製作所」、京都市太秦にあった大沢商会の映画スタジオである「ゼーオー・スタヂオ」といった映画製作会社の作品を配給するため、阪急の小林一三が[要出典]設立した[1]

東京市麹町区日比谷(現在の千代田区日比谷)に劇場街をつくるために1932年(昭和7年)に設立した「株式会社東京宝塚劇場」が、1934年(昭和9年)1月1日東京宝塚劇場をオープン、同年2月に日比谷映画劇場を現在の日比谷シャンテの位置にオープン、つぎつぎに系列館を建てたが、そこへ映画を配給し、「東宝ブロック」を形成した[1]

これに対し、自由契約による人材の流出を懸念した松竹日活新興キネマ大都映画の既成4社は、1937年(昭和12年)3月に系列劇場で東宝ブロック作品との混合上映の禁止を通告した[1]。これにより、東宝ブロック上映館は245館から17館へ激減したが、東宝ブロック側はマスコミを通じて自由競争を訴え、『良人の貞操』や『エノケンのちゃっきり金太』などのヒット作も相次ぎ、これを退けた[1]

東宝への大合併

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1937年(昭和12年)8月26日、「写真化学研究所」と「ピー・シー・エル映画製作所」、「ゼーオー・スタヂオ」と同社の4社が合併し、「東宝映画株式会社」の設立となった[1]。旧ゼーオー・スタヂオを「東宝映画京都撮影所」(現存せず)、旧ピー・シー・エル映画製作所および旧写真化学研究所を「東宝映画東京撮影所」(現在の東宝スタジオ)とし、合併の当初はそれぞれ時代劇、現代劇を製作したが、やがて1939年(昭和14年)に「東宝映画第二撮影所」(のちの新東宝撮影所、現在の東京メディアシティ)を建設・開所し、さらに豊田四郎をメイン監督とした現代劇の「東京発声映画」を1941年(昭和16年)に合併、「東宝映画第三撮影所」(のちの新東宝第二撮影所、現在のオークラランド)とすると同時に京都撮影所は閉鎖した。

1943年(昭和18年)には「東宝映画株式会社」は「株式会社東京宝塚劇場」と合併し、現在の「東宝株式会社」となった[2]

役員

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  1. 植村泰二
    • 代表取締役社長
  2. 佐生正三郎
    • 常務取締役(1936年10月15日)

脚注

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  1. ^ a b c d e 東宝特撮映画全史 1983, p. 82, 「東宝特撮映画作品史 前史」
  2. ^ 東宝映像美術公式サイト内の「会社案内 Archived 2008年12月10日, at the Wayback Machine.」の「沿革」の項の記述を参照。

参考文献

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  • 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5 

関連項目

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外部リンク

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