東京帝国大学 LB-2
概要
編集東京帝大の学生航空研究会は、1936年(昭和11年)に[1][2][3]研究実習として[2]自主的にLB-2の企画を立ち上げ[1][2][4]、1937年(昭和12年)5月頃より[4]航空研究所の木村秀政技師の指導[1][3][4]、和田小六所長の支援の下、1938年(昭和13年)から1939年(昭和14年)卒業の[5]十数名の学生が[1]、阿曾真一郎をリーダーとして[1][6]リレー方式で設計などの作業を行った[1]。実機の製作は日本航空工業の[1][2][3][6]平塚工場で行われ、1939年12月初頭に1機が完成。その後、羽田飛行場にて[1][6]同年12月17日[6]あるいは12月18日に初飛行した[1][3]。与えられた機体記号は「J-BBFI」[1][2]。
機体は木製[1]あるいは木金混製の[2]骨組に羽布張り[1][2]、半片持式の高翼を持つ単発単葉機で[1][2][6]、グライダーと同レベルまで構造を繊細にするとともに、低出力のエンジンでも運用できるように軽量化が図られている[5]。全体的には「堅実保守的」と評される形式だったが[1]、当時の日本では珍しかったNACA 23012を翼型とする[6]楕円テーパー翼を主翼に、透明板をコックピットの前面と側面に用いるなど[1]、学生の設計という出自故に[2]各部に先進的な要素を採用していた。機体は「東大色」のライトブルーで塗装されており[1][2]、機体名の「LB」もこの東大色に由来する[1][6]。座席配置はタンデム複座だが[1][2][5]、これは設計時の第2案であり、機体名の「2」の由来となった。なお、第1案は並列複座だった[1]。
エンジンは、プー・ド・シェルといった[4]軽飛行機向けに日本飛行機がフランスから輸入していた[1][4]トラン「6C-01」を装備していたが[1][2][3]不調が常態化しており[1][3][4]、LB-2は試作のみに終わった[1][4]。現役当時の世間からの評価については、エンジン不調によって飛行回数が少なく[1][3][4]知名度に乏しかったとも[1]、設計を学生が行ったことから人気があったとも言われる[2]。
諸元
編集出典:『日本航空機総集 九州・日立・昭和・日飛・諸社篇』 178,180頁[7]、『日本航空機大図鑑 1910年ー1945年 下巻』 236頁[2]、『日本民間航空史話』 494頁[4]。
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 野沢正 1980, p. 178.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 小川利彦 1993, p. 236.
- ^ a b c d e f g 藤原洋 & 藤田俊夫 2008, p. 172.
- ^ a b c d e f g h i j k l 江頭正樹 1966, p. 494.
- ^ a b c 江頭正樹 1966, p. 494,495.
- ^ a b c d e f g 江頭正樹 1966, p. 495.
- ^ 野沢正 1980, p. 178,180.