来嶌則和
来嶌 則和(くるしま のりかず、1894年(明治27年)4月18日[1] - 1954年(昭和29年)5月29日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級[2]。旧姓は藤岡[1]。
来嶌 則和 | |
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生誕 |
1894年4月18日 日本 山口県 |
死没 | 1954年5月29日(60歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1915年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
経歴
編集1894年(明治27年)に山口県で生まれた[1]。陸軍士官学校第27期卒業[1]。1939年(昭和14年)3月に第32師団捜索隊長(第12軍)に就任して[2]、日中戦争に出動し[1]、山東省西部の守備に任じた[1]。1940年(昭和15年)3月9日に陸軍騎兵大佐に進級し[2]、12月2日に陸軍騎兵学校教導隊長に転じた[2]。1943年(昭和18年)8月に戦車第11連隊長(第5方面軍・第27軍)に就任し[2]、千島列島防衛に任じた[1]。
1944年(昭和19年)12月に千葉陸軍戦車学校長に就任し[1]、1945年(昭和20年)3月1日に陸軍少将に進級した[2]。終戦後は陸軍省附を経て、10月18日に山口連隊区司令官に就任した[3]。
脚注
編集参考文献
編集- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。