村田耕一
日本のアニメーター(1939-2006)
村田 耕一(むらた こういち、本名:村田 清照(むらた きよてる)、1939年4月5日[1] - 2006年11月7日)は、日本のアニメーター。有限会社オープロダクション代表取締役。新潟県柏崎市出身。
むらた こういち 村田 耕一 | |
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プロフィール | |
本名 | 村田 清照(むらた きよてる) |
生年月日 | 1939年4月5日 |
出身地 | 日本・新潟県柏崎市 |
没年月日 | 2006年11月7日(67歳没) |
死没地 | 日本・東京都三鷹市 |
職業 | アニメーター |
所属 | オープロダクション(代表取締役) |
活動期間 | - 2006年 |
ジャンル | アニメーション |
公式サイト | OH!プロダクションによるプロフィール |
経歴
編集1970年5月、塩山紀生、小松原一男、米川功真と共にOH!プロダクション(以下、OH!プロ)を設立する。OH!プロでは、東映動画班と東京ムービーの子会社であったAプロダクション班(現在のシンエイ動画の前身)に分かれて二社の作品を製作していたが、村田はAプロ班の中心アニメーターとして、原画、作画監督などを務め、多くの作品に取り組んだ。また、OH!プロ代表取締役として同社の経営に当たった。
村田はAプロ班のアニメーターとして同社の作品にかかわる中で、高畑勲、宮崎駿らと深い関係を築き、二人の作るアニメ映画やテレビアニメに参加し、作画監督として活躍した。また、OH!プロが『セロ弾きのゴーシュ』を制作するに当たっては、高畑に監督を依頼し、自らはプロデューサーとして製作に当たった。
多くのテレビ・劇場作品の作画を手掛け、高い作画力を誇るスタジオとしてOH!プロを率い、後続を育成した。
温厚な人柄で、年齢性別問わず、誰からも愛される人格者であったため、有限会社OH!プロダクション自体も各業界からの信頼を得ていた。
アニメーション事業者協会副会長を務め、杉並アニメ振興協議会の活動にも積極的に参加するなど、業界全体の発展にも大きく貢献した。
主な参加作品
編集テレビアニメ
編集- 巨人の星(1968年 - 1971年)原画
- タイガーマスク(1969年 - 1971年)作画監督
- アタックNo.1(1969年 - 1971年)作画監督
- ルパン三世(第1期:1971年 - 1972年)原画
- 赤胴鈴之助(1972年 - 1973年)作画監督
- 荒野の少年イサム(1973年 - 1974年)作画監督
- アルプスの少女ハイジ(1974年)作画
- 母をたずねて三千里(1976年)作画
- ピコリーノの冒険(1976年 - 1977年)作画監督
- シートン動物記 くまの子ジャッキー(1977年)作画
- 未来少年コナン(1978年)原画
- ペリーヌ物語(1978年)作画監督
- 赤毛のアン(1979年)原画
- 家族ロビンソン漂流記 ふしぎな島のフローネ(1981年)作画監督
- 南の虹のルーシー(1982年)作画監督
- アルプス物語 わたしのアンネット(1983年)
- 牧場の少女カトリ(1984年)
- 愛少女ポリアンナ物語(1986年)原画
- 小公子セディ(1988年)原画
- ちびまる子ちゃん(第1期:1990年 - 1992年/第2期:1995年 - )原画
- 名犬ラッシー(1996年)原画
- 中華一番!(1997年 - 1998年)原画
- 無人惑星サヴァイヴ (2003年)
- それいけ!アンパンマン うたおう!おどろう!みんなのクリスマス(2006年、TVスペシャル、原画)
映画
編集- パンダコパンダ(1972年)原画
- パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻(1973年)原画
- セロ弾きのゴーシュ(1982年)製作
- はれときどきぶた(1988年)製作
- ドラえもん のび太とふしぎ風使い(2003年)原画
- ドラえもん のび太のワンニャン時空伝(2004年)原画
- あらしのよるに(2005年)原画
OVA
編集- デビルマン 誕生編(1987年)プロデューサー
脚注
編集- ^ 『現代物故者事典2006~2008』(日外アソシエーツ、2009年)p.632