村上昭夫
生涯
編集岩手県東磐井郡大東町(現:一関市)出身[1]。生地は現在の陸前高田市。両親は叔父と姪の関係であった。岩手中学校(現:岩手高等学校)を卒業。第二次世界大戦中、日本鋳造鶴見工場に学徒動員。工場の寮に募集斡旋があったことから満州国哈爾濱省官吏となるが、8月に終戦。ソ連のシベリアで二年間の過酷な抑留生活を送る。
1946年に帰国後、1947年に盛岡郵便局に勤務、労働組合機関誌を編集して小説や詩を発表する。しかし1950年に結核が発病し、退職を余儀なくされる。この結核との闘病生活は41歳で亡くなる最期まで続く。村上の創作活動は闘病生活の中、サナトリウムでの俳句から始まり、やがて同じサナトリウムに入院してきた詩人の高橋昭八郎の影響から詩に転じた。
処女詩集で唯一の詩集である『動物哀歌』は、村野四郎が序文と編集を担当し、第8回晩翠賞及び第18回H氏賞を受賞している。しかし贈呈式への出席は叶わなかった。
末弟で岩手放送の元ディレクターである村上成夫が評伝を書いている。同郷の詩人北畑光男が村上昭夫研究誌「雁の声」を主宰している。またコールサック社の「コールサック文芸・学術文庫」から『村上昭夫著作集』上下巻が刊行された。
略歴
編集詩集
編集- 『動物哀歌』思潮社 1967年
詩碑
編集- 村上昭夫詩碑(盛岡市立図書館)[2]
関連人物
編集出典
編集- ^ a b 「創作の原点 賢治の詩 千厩出身のエッセイスト白石公子さん講演【一関】」『岩手日日』2019年11月26日。2023年5月19日閲覧。
- ^ “もりおか近郊自然歩道ガイドブック”. 盛岡市. 2022年11月8日閲覧。