李重潤
中宗の嫡子次男。皇太孫(廃位)
李 重潤(り じゅうじゅん)は、中国の唐の中宗李顕の嫡子(次男)。初名を李重照と称したが、武則天の諱を忌諱して李重潤と改名した。
李重潤 | |
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続柄 | 中宗第二皇子 |
全名 | 李重潤 |
称号 | 邵王(追贈:懿徳太子) |
身位 | 皇太孫→王 |
出生 |
永淳元年(682年) |
死去 |
大足元年9月3日 (701年10月8日) |
埋葬 | 乾陵 |
父親 | 中宗 |
母親 | 韋皇后 |
生涯
編集中宗と韋皇后の間に生まれ、誕生直後に皇太孫に封じられた。しかし中宗が廃位され、房州に流されると、李重潤も皇太子を廃された。聖暦年間に中宗が皇太子に復位すると、李重潤は邵王に封じられている。大足元年(701年)、永泰郡主李仙蕙・魏王武延基とともに張易之・張昌宗に関し謀議を行ったとして武則天により死を賜った。
神龍2年(706年)に中宗が即位すると、自殺に追い込まれた李重潤を悼み、懿徳太子と追封し、皇太子の格式で改葬し、乾陵に埋葬した。また死去に際し、正妃を娶っていなかったため、中宗は国子監の裴粋の早世した娘との冥婚を行い合葬している。