李琰 (朝鮮)
朝鮮王朝の王子(1434 - 1467)
李 琰(イ・ヨム、宣徳9年・世宗16年(1434年) - 成化3年・世祖13年(1467年))は、李氏朝鮮の王族。字は明之。君号は永膺大君。第4代国王世宗の王子。母は昭憲王后。第5代国王文宗および第7代国王世祖・安平大君・臨瀛大君・広平大君・錦城大君・平原大君の同母弟。桂陽君の異母弟で永豊君李瑔と同じ年の生まれである。母の昭憲王后の子女の中で末子であり、父王から特に可愛がられていた。第6代国王端宗・第8代国王睿宗の叔父。なお、第16代国王仁祖以降の国王は、彼の血筋でもある(仁祖の生母の仁献王后具氏は、長女の玄孫である為)。
永膺大君 李琰 | |
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宗親世 | |
大君 | |
諱号 | 李琰 |
字号 | 明之 |
出生年 | 宣徳9年(1434年) |
没死年 | 成化3年(1467年) |
実父 | 世宗 |
実母 | 昭憲王后 |
経歴
編集1441年に永興大君に封じられる。1442年に当時王世子だった長兄の文宗が父王の摂政となる。1443年に歴陽大君に転じる。1446年に母の昭憲王后が崩御する。1447年に永膺大君に転じる。1450年に自邸の東別宮で父王が崩御する。書や絵、音楽に造詣が深く、1463年に「明皇誡鑑」の歌詞をハングル文字に翻訳する。
最初、礪山宋氏の女性と婚姻したが、夫人が病弱であることを理由に、世宗によって離縁させられた。その後、海州鄭氏を継室に迎えたが、宋氏の事が忘れられず、世祖の協力もあり彼女の元に通い続けた。娘を二人儲け、鄭氏と離縁し宋氏と復縁した。