杉重輔
杉 重輔(すぎ しげすけ)は、戦国時代の武将。大内氏の重臣。杉重矩の子。重良の父。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 弘治3年3月4日(1557年4月3日) |
官位 | 伯耆守 |
主君 | 大内義隆→義長 |
氏族 | 杉氏 |
父母 | 父:杉重矩 |
兄弟 | 重輔、正重 |
子 | 重良 |
生涯
編集戦国大名大内氏の重臣・杉重矩の子として誕生。弟に正重がいる。
父・重矩は天文20年(1551年)の陶晴賢による主君・大内義隆殺害と、大友晴英(大内義長)の大内氏当主擁立(大寧寺の変)に加担したが、天文22年(1553年)に晴賢によって謀殺される。このことから重輔は晴賢を深く恨み、報復の機会を狙っていた。
天文24年(1555年)の厳島の戦いにおいて陶晴賢が毛利元就に討たれると、重輔は手勢を率いて晴賢の居城である富田若山城(現山口県周南市)を急襲し、留守を守る晴賢の嫡男・陶長房や問田隆盛(石見守護代)らを攻め滅ぼした。これを聞いた内藤隆世ら陶派の重臣達が重輔を討伐しようとし、主君・義長が仲裁を試みたものの両者は全面対決に突入し、山口の町を炎上させた。最終的に重輔は 弘治3年(1557年)に防府にて内藤隆世の軍に討たれた。これを聞いた毛利元就は大内氏の本国である周防・長門両国への本格的な侵攻を開始し、大内氏を滅ぼした(防長経略)。