杉江一三
日本の海軍軍人、海上自衛官
杉江 一三(すぎえ いちぞう、1908年〈明治41年〉9月18日 - 1999年〈平成11年〉7月27日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。海兵56期、海大甲種37期。第5代海上幕僚長、第2代統合幕僚会議議長。
生誕 |
1908年9月18日 日本 愛知県 |
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死没 |
1999年7月27日(90歳没) 日本 神奈川県横須賀市 |
所属組織 |
大日本帝国海軍 警備隊 海上自衛隊 |
軍歴 |
1928年 - 1945年(帝国海軍) 1953年 - 1954年(警備隊) 1954年 - 1966年(海自) |
最終階級 |
海軍中佐(帝国海軍) 統合幕僚会議議長たる海将(海自) |
略歴
編集愛知県出身。旧制愛知県立熱田中学校(現:愛知県立瑞陵高等学校)を経て海軍兵学校に入校。太平洋戦争中は、海軍大臣秘書官、南西方面艦隊参謀などを経て、終戦時は特殊潜航艇「海龍」36隻、人間魚雷「回天」6隻、「震洋」100隻を擁する横須賀鎮守府第1特攻戦隊第11突撃隊副長。
戦後は公職追放となり、北海道で酪農に従事するが、1953年(昭和28年)10月に海上自衛隊の前身である警備隊に入隊。1963年(昭和38年)7月、第2次防衛力整備計画実施期間中に海上幕僚長となり、第3次防衛力整備計画策定作業に参画した[1]。その後、海上自衛隊から初の統合幕僚会議議長に就任。議長在任中の1964年(昭和39年)12月11日に、原子力潜水艦保有論を主張し、翌日、日本社会党が中央執行委員会を開き、原子力基本法違反に当たるとして、杉江の免職を要求する事態となった。
年譜
編集- 1925年(大正14年)4月:海軍兵学校入校
- 1928年(昭和 3年)3月:海軍兵学校卒業(第56期)
- 1929年(昭和 4年)11月:海軍少尉任官
- 1931年(昭和 6年)12月:海軍中尉に進級
- 1934年(昭和 9年)11月:海軍大尉に進級
- 1935年(昭和10年)10月:海軍航海学校入校
- 1936年(昭和11年)11月:駆逐艦「夕立」航海長兼分隊長
- 1937年(昭和12年)
- 1938年(昭和13年)
- 1939年(昭和14年)11月15日:海軍少佐に進級[6]
- 1940年(昭和15年)
- 1943年(昭和18年)
- 1944年(昭和19年)
- 1945年(昭和20年)
- 1947年(昭和22年)11月28日:公職追放仮指定[21]
- 1953年(昭和28年)
- 1954年(昭和29年)7月1日:1等海佐、海上幕僚監部総務部総務課長[24]
- 1956年(昭和31年)9月1日:横須賀地方副総監[25]
- 1957年(昭和32年)
- 1958年(昭和33年)1月16日:海上自衛隊幹部候補生学校校長[28]
- 1959年(昭和34年)
- 1961年(昭和36年)3月1日:第8代 舞鶴地方総監[31]
- 1962年(昭和37年)
- 1963年(昭和38年)7月1日:第5代 海上幕僚長[34]
- 1964年(昭和39年)8月14日:第2代 統合幕僚会議議長[35]
- 1966年(昭和41年)4月30日:退官[36]。退官後は丸善石油顧問を経て、1969年(昭和44年)、日本水路図誌株式会社社長に就任[1]
- 1978年(昭和53年)11月3日:勲二等瑞宝章受章[37]
- 1999年(平成11年)7月27日:肺炎のため横須賀市衣笠病院で死去(享年90)、叙・正四位[38]
栄典
編集脚注
編集- ^ a b 『20世紀日本人名事典 (あ-せ)』1338頁「杉江一三」
- ^ 「昭和12年12月1日 海軍辞令公報号外 第99号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072800
- ^ 「昭和12年12月15日 海軍辞令公報号外 107号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072900
- ^ 「昭和13年9月8日 海軍辞令公報(部内限)号外 236号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074300
- ^ 「昭和13年12月15日 海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800
- ^ 「昭和14年11月15日 海軍辞令公報(部内限) 第401号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700
- ^ 「昭和15年4月15日 海軍辞令公報(部内限) 第469号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077900
- ^ 「昭和15年8月20日 海軍辞令公報(部内限) 第518号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078700
- ^ 「昭和15年9月16日 海軍辞令公報(部内限) 第530号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078800
- ^ 「昭和18年7月7日 海軍辞令広報(部内限)第1167号(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092100
- ^ 「昭和18年9月20日 海軍辞令公報(部内限)第1220号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072093100
- ^ 「昭和19年5月1日 海軍辞令公報(部内限)第1447号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072097800
- ^ 「昭和19年9月28日 海軍辞令公報 甲 第1604号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101000
- ^ 「昭和19年11月6日 海軍辞令公報 甲 第1636号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101800
- ^ 「昭和20年5月10日 海軍辞令公報 甲 第1795号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072104700
- ^ 「昭和20年6月11日 海軍辞令公報 甲 第1824号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072105200
- ^ 「昭和20年8月3日 海軍辞令公報 甲 第1876号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072106700
- ^ 「昭和20年9月25日 海軍辞令公報 甲 第1927号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072142900
- ^ 「昭和20年11月7日 海軍辞令公報 甲 第1974号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072143400
- ^ 「昭和20年12月18日 第二復員省辞令公報 甲 第15号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072162100
- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、71頁。NDLJP:1276156。
- ^ 『官報』本紙 第8078号(昭和28年12月7日)
- ^ 『官報』本紙 第8125号(昭和29年2月5日)
- ^ 『官報』本紙 第8275号(昭和29年8月3日)
- ^ 『官報』本紙 第8907号(昭和31年9月4日)
- ^ 『官報』本紙 第9130号(昭和32年6月3日)
- ^ 『官報』本紙 第9196号(昭和32年8月19日)
- ^ 『官報』本紙 第9318号(昭和33年1月17日)
- ^ 『官報』本紙 第9681号(昭和34年4月2日)
- ^ 『官報』本紙 第9757号(昭和34年7月3日)
- ^ 『官報』本紙 第10259号(昭和36年3月3日)
- ^ 『官報』本紙 第10511号(昭和37年1月5日)
- ^ 『官報』本紙 第10673号(昭和37年7月18日)
- ^ 『官報』本紙 第10962号(昭和38年7月3日)
- ^ 『官報』本紙 第11303号(昭和39年8月17日)
- ^ 『官報』本紙 第11814号(昭和41年5月2日)
- ^ 『官報』号外第87号(昭和53年11月6日)
- ^ 『官報』本紙第2703号(平成11年9月3日)
参考文献
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