朴 鍾和(ぼく・しょうわ、パク・チョンファ、1901年10月29日 - 1981年1月13日)は朝鮮小説家詩人、文学評論家である。本貫密陽朴氏[1]は月灘。日本統治時代の朝鮮で歴史小説家として民族意識を鼓舞した。朝鮮現代文学の開拓者であり、浪漫主義文学の先唱者である。

朴鍾和
各種表記
ハングル 박종화
漢字 朴鍾和
発音: パク・チョンファ
日本語読み: ぼく・しょうわ
英語表記: Park Jeong-hwa
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略歴

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朴鍾和は1901年10月29日、漢城の磐石坊紫岩洞に3人兄弟の次男として生まれる。父は通訓大夫内部主事の朴大赫、母は安東金氏。祖父は通政大夫正三品訓錬院僉正の朴台胤。5歳から私塾で漢文を学んだ。1916年、16歳のとき、新学問を学ぶため、徽文義塾に入学する。17歳で金昌男と結婚。1920年3月、徽文義塾を卒業、10月に洪思容と共に文学同人誌、『文友』を刊行した。ここから朴の文学活動が始まる。

1921年には詩人の同人誌『薔薇村』の同人になる。同人は黄錫禹卞栄魯朴英熙など。『薔薇村』は朝鮮の自由詩の嚆矢と評価されている。朴は創刊号に処女作「懊悩の青春」「牛乳光の路」の2篇を載せた。1922年には『白潮』の同人となり、洪思容羅稲香玄鎮健李相和朴英熙盧子泳金基鎮などと親交を深める。『白潮』3号の載せられた『首をしばられた女子(목매이는 女子)』は、朝鮮文学で最初の歴史小説と言われる。

その後、朴は歴史小説家として力量を発揮した。1935年毎日申報に連載された長篇『錦袖の血』や、『待春賦』(1935年)、『アランの貞操(아랑의 貞操)』(1937年)、『多情佛心』(1940年)などを発表していく。歴史小説は決して現実逃避ではなく、歴史小説が持つ効果は現実小説よりもさらに強いのだ、と朴は信じた。

日帝の圧力によって、朝鮮文学界でも多くの作家が親日文学を発表していく中で、朴は創氏改名を拒否しただけでなく、抗日を主題にした民族文学を活発に展開させた。『前夜』(1942年)、『黎明』(1944年)、『民族』(1946年)は民族を前面に押し出した作品である。

解放後、混乱期の中で、朴は小説を書くだけでなく、全朝鮮文筆家協会副会長をはじめ、韓国文学家協会会長、全国文化団体総聡合会会長、芸術院会長、韓国文人協会理事長、韓国芸術文化団体総聡合会会長、民族文化推進委員会会長、文化芸術倫理委員会委員長など、常に文壇の重鎮として韓国文学をリードした。

1981年1月13日午後7時45分、ソウル市鐘路区平倉洞の自宅で逝去。80歳であった。

年譜

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日本語で読める作品

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  • 金時鐘訳「からたち」『再訳 朝鮮詩集』岩波書店、2007年
  • 金時鐘訳「青磁賦」『再訳 朝鮮詩集』岩波書店、2007年
  • 金時鐘訳「石窟庵」『再訳 朝鮮詩集』岩波書店、2007年
  • 金時鐘訳「内霧在嶺」『再訳 朝鮮詩集』岩波書店、2007年

脚注

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  1. ^ (2)밀양 박씨(密陽朴氏)-3,031,478명” (朝鮮語). 서울이코노미뉴스 (2014年7月5日). 2022年8月15日閲覧。