坂東好太郎

1911-1981, 歌舞伎役者、映画俳優。
本間謙太郎から転送)

坂東好太郎(ばんどう こうたろう、1911年明治44年〉5月4日 - 1981年昭和56年〉11月28日)は、昭和初期の歌舞伎役者、映画俳優屋号大和屋定紋三ツ大、替紋は花勝見。本名は本間 健太郎(ほんま けんたろう)。

ばんどう こうたろう
坂東 好太郎

屋号 大和屋
定紋 三つ大 
生年月日 1911年5月4日
没年月日 (1981-11-28) 1981年11月28日(70歳没)
本名 本間健太郎
襲名歴 1. 澤村健太郎
2. 坂東好太郎
出身地 東京市神田区連雀町
職業 歌舞伎役者、映画俳優
活動期間 1922–79年
活動内容 時代劇、剣戟
十三代目守田勘彌
飯塚敏子
二代目坂東吉彌
坂東彌十郎

時代劇映画の二枚目スターとして大人気を得た。

生涯

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東京市神田区連雀町(現在の東京都千代田区神田須田町)に生まれた。父は十三代目守田勘彌、母は町内の富士見湯の娘だった。

数え五つのとき七代目澤村宗十郎に弟子入し、8歳のとき伯父七代目坂東三津五郎の門へ移った。1922年大正11年)、帝国劇場(または市村座)で澤村健太郎として初舞台を踏み、1924年(大正12年)から坂東好太郎を名乗った。1930年昭和5年)、六代目尾上菊五郎日本俳優学校を卒業。この頃、四代目片岡我當が座長を務める新宿第一劇場の『青年歌舞伎』に参加した。

1931年(昭和6年)、20歳のとき、松竹下加茂撮影所専属の映画俳優に転じ、翌年『世直し大明神』でデビューした。以後、林長二郎高田浩吉とともに「下加茂の三羽烏」と呼ばれ、多くの時代劇映画に出演した[1]溝口健二監督のもとで田中絹代と共演した『浪花女』(1940年)は名作といわれる[要出典]

この頃、同じ下加茂撮影所の女優飯塚敏子と結婚。

1941年(昭和16年)には「報国劇団坂東好太郎一座」を結成して日本移動演劇連盟に加盟、各地を慰問巡業した[2]

戦後は、1948年(昭和23年)に大映京都撮影所に入社し、1955年には日活へ、1958年には新東宝1960年には東映へと相次いで移籍した。

1962年9月、八代目坂東三津五郎の襲名披露興行を契機に歌舞伎に戻る。その口上の舞台では、十七代目中村勘三郎からの「けーんちゃん」と呼びかけに「はぁーい」と受けて笑わせた。勘三郎は少年期、母親が関係した連雀町の寄席・白梅亭に入り浸って[3]、町内の好太郎と古馴染みだった。以後、勘三郎一座ほかの舞台で敵役や老役として活躍した[4][5]

1981年(昭和56年)11月28日に死去する。70歳だった。

主な出演作品

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映画

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テレビドラマ

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舞台

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出典

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  1. ^ 坂東好太郎 - 日本映画データベース
  2. ^ 報国劇団坂東好太郎一座
  3. ^ 関容子『中村勘三郎楽屋ばなし』文藝春秋文春文庫〉、1987年、[要ページ番号]頁。ISBN 4-16-745701-6 
  4. ^ 国立劇場文化デジラルライブラリー「公演記録」>「歌舞伎」>「人名で探す」
  5. ^ 東映歌舞伎一覧
  6. ^ 蒙古襲来・敵国降伏・出師篇”. 日本映画製作者連盟公式サイト. 映連データベース. 日本映画製作者連盟. 2020年3月30日閲覧。
  7. ^ 歌麿をめぐる五人の女(1946)”. キネノート. キネマ旬報社. 2020年3月30日閲覧。
  8. ^ 木曽の天狗”. キネノート. キネマ旬報社. 2020年3月30日閲覧。
  9. ^ 紅蓮菩薩”. キネノート. キネマ旬報社. 2020年3月30日閲覧。

参考文献

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  • 『演劇界臨時増刊 新版歌舞伎俳優名鑑』(1973年、演劇出版社)
  • 上田正昭ほか監修『講談社日本人名大辞典』(2001年、講談社) ISBN 4062108496

外部リンク

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