本田耕一
本田 耕一(ほんだ こういち 1923年 - 1945年5月14日[2])は、日本の元アマチュア野球選手、大日本帝国海軍軍人。兵庫県出身。
本田 耕一 | |
---|---|
生誕 |
1923年 日本 兵庫県 |
死没 |
1945年5月14日(満22歳没) 日本 種子島東方[1] |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1944年 - 1945年 |
最終階級 | 海軍少尉 |
来歴・人物
編集旧制日本大学第三中学校(現・日本大学第三中学校・高等学校)在学中に、甲子園に3回出場(春2回〔1938年[3]、1939年[4]〕,夏1回〔1938年[3][5]〕)。当時のチームメイトに、鬼頭政一(のち名古屋,西鉄などでプレー。元太平洋監督),坂本茂(のち巨人などでプレー)がいた。卒業後は法政大学に進学。大学時代は一塁手として活躍した[2]。
大学に在学していたが、1944年春の学徒出陣によって召集される。本田は海軍飛行科を希望し、第14期飛行専修予備学生として筑波海軍航空隊に配属され、1945年に神風特別攻撃隊に志願して特攻隊員となる。特攻訓練を受けたのち、鹿児島県の鹿屋基地に転進する。海軍の同期には、石丸進一(プロ野球選手。名古屋軍〈現・中日ドラゴンズ〉所属の投手。)がいた。尚、石丸とは親友でもあった。
同年5月11日の菊水六号作戦発動に伴い、まず石丸が神風特別攻撃隊「第五筑波隊」隊員として爆装零戦に搭乗。搭乗直前に本田は石丸と最後のキャッチボールを10球行い、キャッチボールが終わると石丸は「これで思い残すことはない。報道班員、さようなら!!」と笑顔で叫んでグラブを放り投げ、飛行場へ去って行ったという。このエピソードは、石丸の従弟である牛島秀彦が『消えた春 特攻に散った投手 石丸進一』という本を著した事により有名になった。また、本の刊行から2年後の1996年には、これを元にした映画『人間の翼 最後のキャッチボール』が作られた。
石丸の戦死から3日後の5月14日、本田も同作戦の一環として神風特別攻撃隊「第六筑波隊」隊員[1]として爆装零戦に搭乗。鹿屋基地から出撃し、種子島東方にて米軍機により撃墜され戦死[1]。享年22。遺書には「男一度は咲く桜 勇みて征かむ南の海に 必ずや沈めん敵を常夏に 御国栄える時ぞ来しき 我は今尊き大き使命もち 桜花と共に散りて撃ちなん 友は哭き吾に続くと語る心は」とあった[6]。
東京ドーム内にある野球殿堂博物館に設置された、戦没野球人モニュメントに彼の名が刻まれている。
演じた人物
編集- 本田博太郎 - 『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』(1979年、東宝)
- 酒井一圭 - 『人間の翼 最後のキャッチボール』(1996年、シネマクラフト)
参考文献
編集- 牛島秀彦『消えた春 特攻に散った投手 石丸進一』(河出文庫、1994年) ISBN 4309472737
- 牛島秀彦『消えた春 名古屋軍投手・石丸進一』(第三書館、1995年) ISBN 4807495119
- 秦郁彦『太平洋戦争航空史話』下(中公文庫、1995年) ISBN 4122023718
- 第二十六章 最後のキャッチボール 石丸進一と筑波特攻隊 p221~p244
- 木暮正夫『最後のピッチング』(ポプラ社、1987年) ISBN 9784591025093
脚注
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 人間の翼 (古賀英語空手道場HPより)