本多忠次 (榎本藩嫡子)
本多 忠次(ほんだ ただつぐ)は、江戸時代前期の人物。下野国榎本藩主・本多忠純の世嗣であったが、早世した。
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 慶長15年(1610年) |
死没 | 寛永3年8月2日(1626年9月22日)[1] |
別名 | 大学(通称)[1] |
戒名 | 宗哲[1] |
藩 | 下野榎本藩世嗣 |
氏族 | 本多氏(弥八郎家) |
父母 | 本多忠純 |
兄弟 | 忠次、本多政遂正室、長谷川広清室 |
生涯
編集榎本藩主・本多忠純の長男として誕生[1]。忠純の正室は片桐氏であるが[2]、忠次の母は「某氏」とある[1]。
本多家の嫡子(次期家督)として位置づけられ、寛永元年(1624年)、15歳の時に将軍徳川家光に拝謁した[1]。なお、通称の「大学」は父の忠純も名乗った名である[2]。
しかし、家督を相続することなく寛永3年(1626年)に17歳で早世した[1]。
忠次の死後、従兄弟に当たる政遂が忠純の婿養子に迎えられ、嫡子となった。