本堂親久

日本の江戸時代後期~明治時代後期の武士・大名・知藩事・男爵。交代寄合本堂親道長男で、常陸志筑藩主(1代限り。10110石)。志筑本堂氏10代当主。従四位式部少輔

本堂 親久(ほんどう ちかひさ)は、江戸時代後期の旗本大名明治時代の華族常陸志筑藩主。男爵

 
本堂 親久
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政12年12月18日1830年1月12日
死没 明治28年(1895年3月5日
改名 錦丸(幼名)→親久
別名 内膳(通称
戒名 親巌憲章泰徳院大居士
墓所 茨城県かすみがうら市志筑の長興寺
官位 従五位正五位従四位、式部少輔
幕府 江戸幕府
主君 徳川家慶家定家茂慶喜明治天皇
常陸志筑藩
氏族 本堂氏
父母 父:本堂親道、母:松平頼説の娘
正室伊東祐相の娘
親雄、錦丸、東男、龍雄(横手信太郎養子、後に離縁)
テンプレートを表示

生涯

編集

文政12年(1829年)12月18日、旗本交代寄合本堂親道の子として生まれる。嘉永5年(1852年)、父の隠居により家督を相続する。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、新政府の東征従軍の功によって賞典金2000両を賜る。

慶応4年(1868年)7月14日、所領替えによって1万110石に加増され、大名に列して立藩した。明治2年(1869年)、版籍奉還により志筑藩知事(家禄195石)に就任する。明治4年(1871年)、廃藩置県によって志筑県知事に就任する。11月、免官。この間、旧藩士を樺太開拓事業に当たらせている。明治17年(1884年)、男爵に叙せられた。

明治28年(1895年)3月5日に死去した。享年67。

家族

編集

父母

子女

  • 本堂釟子 ー 有馬氏弘正室後に門川祐教室
  • 本堂錦丸(長男)
  • 本堂錫子 ー 工藤精一室後に萩原陽室
  • 本堂増子 ー 吉田珊の養女
  • 本堂鍈子 ー 近藤長四郎室
  • 本堂親雄(次男)
  • 本堂東男
  • 本堂龍雄[1]

脚注

編集
  1. ^ 横手信太郎の養子、後に離縁。
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
志筑本堂家初代
1884年 - 1895年
次代
本堂親雄
当主
先代
本堂親道
志筑本堂家
10代
1852年 - 1868年
次代
本堂親雄