末法
仏教で、仏の教のみが存在して悟りに入る人がいない時期
末法(まっぽう)とは、仏教で、仏陀の教のみが存在して悟りに入る人がいない時期のこと。または、釈迦の死後1,500年(または2,000年)以降の時期のことである。
ギリシャ神話における「鉄の時代」と発生学的に対応するか。
概説
編集末法というのは、正法(しょうぼう)、像法(ぞうぼう)の後に位置づけられている時期のことである。正法・像法・末法という三時(さんじ)のひとつである。
末法というのは、仏の在世から遠く隔たったため、教法が次第に微細・瑣末になり、僧侶が戒律を修めず、争いばかりを起こして邪見がはびこり、釈迦の仏教がその効力をなくしてしまう時期とされる。
三時の長さのとらえかたには諸説あり、一説には、正法 千年、像法千年、末法 一万年とされ[要出典]、多くはこの説をとっている。
五百歳
編集三時または五箇の五百歳は『大集経』に説かれる。
「 |
大覚世尊、月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり。所謂我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固已上一千年、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固已上二千年、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん |
」 |
日本では伝統的に『末法燈明記』(最澄の著作とされていたが偽書説がある[1])を根拠に1052年(永承7年)に末法に入ったとされたため、ここではそれに従う。この考え方では釈迦の入滅を『周書異記』を根拠に紀元前949年とする(考古学的な推測よりかなり古い時代であり、東南アジアの仏暦ともかなりの差がある)[2]。
関連文献
編集- 北川前肇,「日蓮聖人『観心本尊抄』を読む(第21講) 末法に必ず出現される地涌の菩薩」大法輪 75(3), 174-181, 2008-03
- 関口忠男, 「『平家物語』末法観の提起せる諸問題 」大東文化大学紀要, 人文科学 (47), 169-183, 2009, NAID 40016590114
- 秋場善彌, 「「日蓮主義」研鑽(41) 末法には折伏立行が如説修行--『佐渡御書』『如説修行抄』に学ぶ」国体文化 (1021), 24-28, 2009-06, NAID 40016694351
- 渡邊寳陽, 「『立正安国論』の周辺と『観心本尊抄』の精髄」『印度學佛教學研究』 57巻 3号 2009年 p.1285-1292, 日本印度学仏教学会, doi:10.4259/ibk.57.3_1285, NAID 110007160484
- 釆睪晃, 「慧思における末法と『法華経』」『佛教学セミナー』 91号, p.18-28, 2010-06, 大谷大学佛教学会, ISSN 0287-1556
- 千葉考史,「法然・親鸞の末法観」『仏教文化』 (19), 29-45, 2010-03, NAID 40018986907