末松茂治
日本の陸軍軍人
末松 茂治(すえまつ しげはる、1882年(明治15年)5月15日[1] - 1960年(昭和35年)8月6日[1])は、日本の陸軍軍人、小倉市長。最終階級は陸軍中将。政治家の迫水久常は甥。
末松茂治 すえまつ しげはる | |
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生年月日 | 1882年5月15日 |
出生地 | 日本 福岡県 |
没年月日 | 1960年8月6日(78歳没) |
出身校 | 陸軍士官学校卒業 |
前職 | 陸軍中将 |
称号 |
従三位 功四級金鵄勲章 勲四等旭日小綬章 大正三四年従軍記章 |
親族 | 甥・迫水久常(郵政大臣) |
在任期間 | 1942年5月27日 - 1946年1月25日 |
経歴
編集福岡県出身[1][2]。末松久次郎の長男として生まれる[3]。1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業[1][4]。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官[4]。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業[1][5]。
1924年(大正13年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第1連隊長に就任[2]。1925年(大正14年)5月、歩兵第45連隊長に移り、さらに教育総監部庶務課長を務める[2]。1930年(昭和5年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第36旅団長となる[1][2]。1931年(昭和6年)8月、陸軍歩兵学校付となり、陸士幹事を経て、1934年(昭和9年)3月、陸軍中将に進み陸士校長に就任[1][2]。
1935年(昭和10年)12月、第14師団長に親補された[1][2]。1937年(昭和12年)3月、待命、そして予備役に編入[1][2]。同年10月、日中戦争に伴い召集され新設の第114師団長に就任し出征[1][2]。南京攻略戦、徐州会戦に参戦[1]。1939年(昭和14年)3月、参謀本部付、そして召集解除となった[1][2]。
その後、小倉市長を1942年(昭和17年)5月27日から1946年(昭和21年)1月25日まで務めた[3][6]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[7]。
墓所は多磨霊園(9-1-8)
栄典
編集- 位階
- 1929年(昭和4年)12月28日 - 正五位[要出典]
- 1934年(昭和9年)3月15日 - 従四位[8]
- 1936年(昭和11年)4月15日 - 正四位[9]
- 1937年(昭和12年)4月28日 - 従三位[10]
- 勲章等
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l 『日本陸軍将官辞典』387-388頁。
- ^ a b c d e f g h i 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』186頁。
- ^ a b 『人事興信録 第十四版(上)』ス14頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』183、186頁。
- ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、559頁。
- ^ 北九州市史編さん委員会編『北九州市史 近代・現代 行政社会』北九州市、1987年、1068頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」138頁。
- ^ 『官報』第2164号「叙任及辞令」1934年3月22日。
- ^ 『官報』第2786号「叙任及辞令」1936年4月18日。
- ^ 『官報』第3096号「叙任及辞令」1937年5月3日。
- ^ 『官報』第1068号・付録「叙任及辞令」1916年2月25日。