末岡圀孝
日本のサッカー選手
末岡 圀孝(すえおか くにたか、1917年2月1日 - 1998年11月[2])は、広島県出身のサッカー選手。
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名前 | ||||||
カタカナ | スエオカ クニタカ | |||||
ラテン文字 | SUEOKA Kunitaka | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1917年2月1日[1] | |||||
出身地 | 広島県 | |||||
没年月日 | 1998年11月(81歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
ユース | ||||||
広島第一中学校 | ||||||
早稲田大学 | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
早大WMW | ||||||
代表歴 | ||||||
1939-1940 | 日本 | 1 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
来歴
編集広島一中時代は、センターフォワード(CF)だった。早稲田大学理工学部に進学してア式蹴球部に所属、高橋英辰らが同期[3]であり、1938年の全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝メンバーに名を連ねている。また、1940年4月の全日本蹴球選手権大會(第20回天皇杯全日本サッカー選手権大会)では早大WMWのメンバーとして大会準優勝に貢献した。
また、大学在学中の1939年8月27日には関東州代表戦でサッカー日本代表として初出場[4]。また、同年9月の日満華交歓競技大会および1940年6月の紀元二千六百年奉祝東亜競技大会に出場し、国際Aマッチ1試合を含む合計4試合に出場した。中華民国代表戦で1ゴール(PK)がある[5]。
その後石川島播磨重工業に勤めたが、サッカーをどの程度続けたかは不明。
所属クラブ
編集- 広島県立広島第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)
- 早稲田大学/早大WMW
- 石川島播磨重工業(サッカーを続けたかは不明)
代表歴
編集出場大会
編集試合数
編集- 国際Aマッチ 1試合 0得点(1940)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1939 | 0 | 0 | 3 | 1 | 3 | 1 |
1940 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 |
通算 | 1 | 0 | 3 | 1 | 4 | 1 |
出場
編集No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1940年06月16日 | 兵庫県 | 甲子園南運動場 | フィリピン | ○1-0 | 竹腰重丸 | 奉祝東亜競技大会 |
出典
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 末岡圀孝 - National-Football-Teams.com