末吉孫左衛門
末吉 孫左衛門(すえよし まござえもん、元亀元年(1570年) - 元和3年3月26日(1617年5月1日))は、江戸時代初期に朱印船貿易で活躍した大坂の豪商。名は吉安(吉康)[1]。出家後は同円。
伏見銀座の頭取である摂津国東成郡平野郷(現在の大阪市平野区)発祥の氏族・平野氏の平野勘兵衛利方(のちの末吉勘兵衛)の孫にあたる[1]。利方は千利休とも親しく交流があった。利方の長男が早世したため、利方の嗣子となった[1]。1607年(慶長12年)利方が死去すると、家督を継いだ[1]。1608年、伏見の銀座を京都市内に移し、大坂に出張所をおいた[1]。吉康が住んだ町は「末吉孫左衛門町」と呼ばれた[1]。大坂冬の陣・大坂夏の陣では徳川家康に与し[1]、陣の直後に旗本として身分を保証された[1]。
1601年、朱印船制度が制定されると、1604年から1634年にかけて、吉康と長男の長方による「末吉船」が大坂から派遣された朱印船の半分以上を占めた[1]。同時期に朱印状を受けた商人としては、茶屋四郎次郎、荒木宗太郎、角倉了以らがいる[1]。「末吉船」はインドシナ・フィリピンなどの南洋方面に出かけて貿易を行った[1]。