末包良太
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末包 良太(すえかね りょうた、1925年(大正14年)2月8日 - 1987年(昭和62年)10月24日[1])は、昭和時代の計算機科学者。
経歴・人物
編集京都市に生まれる[1]。第三高等学校、東京帝国大学工学部航空学科を経て1948年(昭和23年)同大学応用数学科を卒業[1]。同大助手を経て1951年(昭和26年)電気試験所材料部数学研究室に勤務し、駒宮安男とともに1952年(昭和27年)継電器式自動計算機のパイロットモデルETL Mark Iを完成させた[1]。これは日本初の逐次式自動計算機であった[1]。のち駒宮と共に大型継電器式自動計算機ETL Mark IIの開発に着手し、1955年(昭和30年)高木正英や桑原繁らとともにこれを完成させた[1]。これは当時、リレー計算機としては世界最大かつ最高速のものであった[1]。1965年(昭和40年)10月、東京大学から工学博士の学位を授与される[1]。翌年の1966年4月から一年間、計算機理論に関する調査のため東欧に赴任する[1]。のち、歴史研究委員会主査、電子技術総合研究所パターン情報部数理基礎研究室長、山梨大学電気工学科教授などを歴任した[1]。