曽根昌長
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曽根 昌長(そね まさなが)は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 大永3年(1523年) |
改名 | 孫四郎(仮名) |
戒名 | 久庵永公庵主 |
官位 | 三河守 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 武田信昌→信縄→信虎 |
氏族 | 曽根氏 |
父母 | 父:不詳、母:不詳 |
子 | 縄長 |
特記 事項 | 姓に関しては「曾根」とも書かれている |
生涯
編集武田信昌の時代からの武田家重臣で、諱の昌長は信昌の偏諱と推測される[1]。信昌・信縄父子に仕え、楠浦昌勝とともに信縄・信虎の有力側近として知られる。重臣としての活動は永正3年(1506年)11月に五所権現(金桜神社)修造で代官を務めているのが所見となる[1]。
信縄の没後は信虎に仕え、永正17年(1520年)の栗原兵庫との戦いでは信虎軍の大将を務めた[1]。大永元年(1521年)の武田晴信誕生に当たっては目役を務めた[1]。大永2年(1522年)11月、東郡大工村神社の修造において代官を務めているが、これが活動の最後となる[1]。