景浦直孝
愛媛県の郷土史家
この記事の主題はウィキペディアにおける独立記事作成の目安を満たしていないおそれがあります。 (2024年1月) |
景浦 直孝(かげうら なおたか、1875年(明治8年)7月12日 - 1962年(昭和37年)8月19日)は、明治時代から昭和中期にかけての愛媛県の郷土史家。号は景浦稚桃。
人物情報 | |
---|---|
別名 | 号:景浦稚桃 |
生誕 |
1875年7月12日 日本愛媛県松山城下北夷子町(現松山市三番町) |
死没 |
1962年8月19日(87歳没) 日本愛媛県松山市 |
出身校 | 愛媛県立伊予尋常中学校 |
両親 | 父:景浦充孝、母:景浦與禰 |
子供 | 景浦勉 |
学問 | |
活動地域 | 日本愛媛県 |
研究分野 | 歴史学 |
主な業績 | 『伊予史精義』『伊予史論考』 |
学会 | 伊予史談会 松山子規会 |
生涯
編集愛媛県松山城下北夷子町(現松山市三番町)に、士族景浦充孝の子として生まれる。1894年(明治27年)愛媛県立伊予尋常中学校(後の旧制松山中学校)を卒業。小学校訓導を経て、1901年(明治34年)に松山高等女学校(現松山南高校)の教諭となり、1926年(大正15年)の退職、1926年(大正15年)から1938年(昭和13年)までは北予中学校(現松山北高校)の教諭となる。
1910年(明治43年)愛媛県の公刊事業で、『愛媛県誌稿』の編纂が始まり、景浦は委員に委嘱される。(委員長は愛媛県立松山商業学校(現松山商業高校)校長陶山斌二郎、他委員は同校教諭羽田又永)『愛媛県誌稿』は1917年(大正6年)に出版される。景浦は、『愛媛県誌稿』の執筆にあたり地域史料調査の必要性から、熱心に郷土史料の古記録・古文書を蒐集していた西園寺源透と知り合い交流するようになる。1914年(大正3年)に西園寺源透、曽我部一郎とともに伊予史談会を設立する。
1924年(大正13年)、景浦自身の研究成果に加えて、西園寺源透・曽我部一郎・菅菊太郎・長山源雄ら伊予史談会仲間の研究成果・史説を援用して、初の系統的な伊予の通史である『伊予史精義』を出版した。
1960年(昭和35年)松山市から、名誉市民の称号を授与され、翌1961年(昭和36年)には、関用紙店印刷所50周年記念出版として、人物篇・考証篇・史論篇33論考を収録した『伊予史論考』を上梓刊行した。
主要業績
編集- 『伊予史料の研究』、1915年
- 『伊予史精義』、1924年
- 『伊予史の研究』、1934年
- 『伊予文化史研究』、1954年
- 『伊予史論考』、1961年
- 『伊予史点描』(遺稿集)、1970年