明浜町
明浜町(あけはまちょう)は、かつて愛媛県に存在した町。東宇和郡に属した。
あけはまちょう 明浜町 | |
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廃止日 | 2004年4月1日 |
廃止理由 |
新設合併 明浜町、宇和町、野村町、城川町、三瓶町 → 西予市 |
現在の自治体 | 西予市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 四国地方 |
都道府県 | 愛媛県 |
郡 | 東宇和郡 |
市町村コード | 38461-5 |
面積 | 25.98 km2 |
総人口 |
4,678人 (2000年10月1日) |
隣接自治体 |
東宇和郡宇和町・西宇和郡三瓶町 北宇和郡吉田町 |
町の木 | 桜 |
町の花 | はまゆう |
明浜町役場 | |
所在地 |
〒797-0292 愛媛県東宇和郡明浜町大字高山甲3657番地 |
座標 | 北緯33度19分13秒 東経132度25分57秒 / 北緯33.32014度 東経132.43242度座標: 北緯33度19分13秒 東経132度25分57秒 / 北緯33.32014度 東経132.43242度 |
ウィキプロジェクト |
キャッチフレーズは「潮風とみかんと心ときめく町」[1]、サブキャッチフレーズは「素足の自然感じてみませんか」[2]だった。2004年4月1日合併により、西予市の一部となって自治体としての明浜町も消滅した。現在は、西予市の住所表示名の一つとして残っている。
地理
編集位置
編集- 愛媛県の南部、南予地方のほぼ中央の東宇和郡(市町村合併により消滅)の一番西に位置し宇和海に面している。
地形
編集入り組んだリアス式海岸で入り江に集落がある。町内はほとんどが宇和海に面する南斜面である。急傾斜地はその多くが果樹園として利用されている。平地は極めて乏しい。
気候
編集宇和海に面しており、海洋性の温暖な気候である。
集落
編集町内は大きく4つの地区(集落)があり、それぞれ小学校があったが、現在は4校が合併され明浜小学校が俵津にある。
- 田之浜(たのはま)
- 高山(たかやま)
- 狩江(かりえ)
- 俵津(たわらづ)
- 高山をさらに、高山と宮野浦(みやのうら)に、狩江を狩浜(かりはま)と渡江(とのえ)とに分けることもある。
町名の由来
編集昭和の町村合併の際に、新町の名称として公募した中の一つで、選考委員会で推挙された。町名案は487件の応募があり、3度の選考を経て10件に絞られた。「明浜町」はこの10件の中には入っていなかったが、最終段階で復活し選考委員の支持を得た[3][要出典]。なお700年から800年前まで、この地域(特に高山)が「明浜(あかはま)」と呼ばれていたことがあるとされる[4][5]。
歴史
編集近世
近代
- 1880年代(明治10年前後) - かんきつ類の作付始まる
- 1879年(明治12年) - 養蚕始まる
- 1881年(明治14年) - かっぱ狛犬奉納
- 1889年(明治22年) 12月15日 - 町村制施行に伴い東宇和郡俵津村、狩江村、高山村が成立。
- 1911年(明治44年) - 宇和島運輸により沿岸航路開設
- 大正期 - 大戦景気により、石灰業が繁忙を極める。一時は高山の料理店に芸者が居たほど。
- 大戦後 - 不景気に加え、過燐酸石灰等の化学肥料が出回り、また硫安などに押され石灰肥料の需要減退、大陸に活路を求める。
- 高山地区の東部、大早津に海に面して石灰石の切り出し地があり、昭和20年代頃までは大いに栄えた。この関係で、海運業も栄えた。しかしながら、この繁栄も長くは続かず、昭和50年代には鉱山も閉鎖され、現在は跡地は廃墟と化している。
- 1933年(昭和8年) - 第一次ブラジル農業移民
戦後
新町以降
- 1958年(昭和33年) 1月1日 - 豊海村、高山村が合併して明浜町発足
- 1963年(昭和38年) - 俵津分校 閉校
- 1965年(昭和40年) - この頃石灰業者11業者を数える
- 1968年(昭和43年) - フェリーおれんじ沈没事故(大崎鼻沖)
- 1973年(昭和48年) - 高山分校 閉校
- 1973年(昭和48年) - 南予水資源開発事業として野村ダムの建設決定
- 昭和40年代末頃 - 伊予柑、ポンカンなどの高級晩柑類への更新始まる
- 原子力発電所など、エネルギー基地の立地が計画されたこともあったが、いずれも実らなかった。
- それ以降は、みかんと水産の静かな町となった。
- 1979年(昭和54年) - 高山鉱山閉山
- 1988年(昭和63年) - かっぱMATSURI始まる
- 1989年(平成元年) - シーサイドサンパーク構想策定
- 1991年(平成3年) - 台風19号による被害発生
- 2004年(平成16年) 4月1日 - 宇和町、野村町、城川町、三瓶町と合併して西予市となる。
行政
編集- 庁舎 - 本庁は高山地区にあるほか、俵津には支所が置かれていた。
- 首長
- 初代 酒井義満(1958年2月 - 1966年2月)
- 2代 平野善一(1966年2月 - 1974年2月)
- 3代 宇都宮竹夫(1974年2月 - 1978年2月)
- 4代 酒井正直(1978年2月- 2004年3月)
- 昭和の合併の経緯
産業
編集農業と水産業中心である。
文化
編集海にちなむ独自の文化が息づいている。
- 若宮神社のかっぱの狛犬(高山)
- 鯨塚
- 食糧難に苦しんでいた江戸時代に、鯨が海岸に打ち上げられ、村民が飢えをしのいだ。鯨に感謝して、海岸に鯨塚がつくられ、奉られている。鯨には当時の大名級院号がつけられている。
- 蛸を祭る神社、春日神社(狩浜)
文楽
編集- 俵津文楽(俵津)
祭り
編集イベント的なものは後述。
- 季節の祭には牛鬼が登場する。
- 特に10月下旬に行われる秋祭りが盛大で、各地区で少しずつ異なる(高山、狩江、俵津の各地区で日も異なる)。
- 加茂神社の潮垢離(しおごり)(高山)
- 10月23日の秋の大祭の宵祭(宵宮)で役場埋立地の海岸で行われる。割木を井桁に組んだかがり火を焚き、数十名の若者が褌姿で夜の海に飛び込み、身を清める。戻って、火で体を温めてはまた海に戻ることを繰り返す。
- 火が消えかかる頃、一昼夜海中に沈め海水で清めた牛鬼を引き揚げる。これで潮垢離そのものは終わる。
- 牛鬼はその後町内を練り歩く。神輿も出る。400年余りの伝統をもつ行事。
- 渡江歌舞伎くずし盆踊り(とのえかぶきくずしぼんおどり)
教育
編集町内に高等学校はない。中学校は、町内が大きく東西に分けらけることから、2校あったが、生徒数の減少により、統合された。俵津地区にある東中学校が明浜中学校と改称された。統合後は遠距離通学対策として、旧・西中学校区の生徒はスクールバスにて通学している。
交通
編集道路交通中心。道路事情の悪い戦後一時期までは、船舶によって宇和島に出ることも多かったが、道路事情の改善によってバスが走るようになり、航路はなくなった。
鉄道
編集町内に鉄道はない。
道路
編集高速道路
編集明浜町内に高速道路は通っていない。
国道
編集県道
編集バス
編集宇和島自動車 - 宇和島・吉田方面と卯之町(宇和町)方面に運行。両路線とも高校生の通学や高齢者の通院・買い物等に利用されている。前者については、ローカル路線の割に便数は確保されている。俵津停留所で乗り継ぎが可能。田之浜が終点。以前には三瓶への路線があったが、通学に利用していた高校生もなくなったことから廃止されている。
観光
編集名所・観光スポット
編集- 大早津海岸(おおそうづかいがん)のあけはまシーサイドサンパーク(ふるさと創生館、歴史民俗資料館、オートキャンプ場『きゃんぱ』、塩風呂『はま湯』、民宿故郷(ふるさと)、海水浴場、石灰切り出し跡地など)
- 鯨塚
- フィッシングセンター
- 野福峠
- 文楽会館
- 大崎鼻
- 明浜宇和山岳公園
- 石灰窯跡地
イベント
編集- 野福峠さくら祭(俵津)
- かっぱMATURI
- 明浜町高山の「あけはまシーサイド・サンパーク」において、「かっぱの恩返し」の説話をベースにした真夏のイベント。1988年度に当時盛んに行われた「ふるさと創生事業」の一環で検討を開始。そのなかで、明浜町の暮らし良さや豊かさ、人情をアピールできるイベントを創出すべきとの気運が高まっていった。町のシンボルである「海」を舞台に、恩返しの言い伝えが残る「かっぱ」をキャラクターとして、その名も「かっぱMATURI」とした。
- その他の祭りについては#文化を参照。
特産物
編集著名な出身者・関係者
編集脚注
編集- ^ “せいよ徒然日記「ほほを染めてお出迎え♪」”. 西予市 せいよ観光物産サイト (2015年10月5日). 2017年11月5日閲覧。
- ^ 「地域おこし、あの手この手 イメージ刷新 サブの宣伝文句決まる 明浜町」『愛媛新聞』平成5年(1993年)4月25日付8面。
- ^ 『明浜町誌』308ページ。
- ^ 『明浜町誌』309ページ。
- ^ 角川日本地名大辞典 38.愛媛県(1981年 ISBN 4040013808 )1004頁
- ^ 溝手理太郎編 『市町村名語源辞典』 東京堂出版、平成13年、8頁 ISBN 9784490105902
- ^ 『明浜町誌』315ページ。
- ^ 『明浜町誌』316-317ページ。
- ^ 日経メディカル
参考文献
編集- 明浜町誌編纂委員会(編)『明浜町誌』明浜町役場、1986年。